3という数字は、剛士にとって魔力を秘めてしまった数字である。
2でも5でも10でもなく、3だ。3個、3つ、3人。揃った時にそっと安堵する。
だから、ガムを買うために立ち寄ったコンビニで、無性に食べたくなってしまったレジ横の肉まん。これもその魔力によって「あと、肉まんを3つください」の言葉となった。
温かい肉まんが3つ入った袋が1つと、粒ガムとミネラルウォーターが入った袋が1つ。
エレベーターを降りた剛士が少し大股で歩くたびに、ガサリガサリとビニール袋の擦れる音もついてくる。
スマホを取り出して時間を確認する。午後10時16分。10時を過ぎている。ということはつまり、普段なら愛染はもう食事をしない時間だ。
ドアの前で立ち止まり少し考えた後、ポケットに突っ込んだままの鍵を取り出すこともなく、俺はドアノブを引いた。
リビングに入ると、愛染が撮影し始めたばかりのドラマの台本に目を通していた。
澄空が役作りに悩んでいるようだと言って、気をもんでいたことを思い出す。
「へえ、そうなのか」と返したら、何故だか不満そうな顔をしていた。
そんな顔をされても、どうしようもない話だ。俺や阿修が、如何こう言えばいいというものでもないだろう。コイツはそこまで腑抜けじゃない。
ただ、緩やかに振り返った顔は、よくよく疲れていた。
「肉まん、買ってきた。3つ」
「ふうん。……まだあたたかいの」
「まあ。さっき買ったばっかだし」
「じゃあ、悠太呼んでくる」
小さく息を吐いて、愛染が立ち上がった。マグカップを持ち上げて、ダイニングテーブルに置く。ここで“自分も”食べるという意思表示だ。役に煮詰まっているのは確かなんだろう。
するりとリビングを出るのを見送って、置きっぱなしにされた台本を捲る。
水色のマーカーで引かれた少し歪な線。青色のボールペンで書かれた細かな文字が、所々でぐちゃぐちゃと乱れている。ドラマの内容は、台本が届いた日に阿修が読み上げたおかげで知っていた。アイツのイメージにハマった恋愛ものが、悩みになるなんて皮肉なもんだな。
愛や幸せを多く語ろうとするやつは、それを失ったことがあるか失いそうであるかだ。
何処かで見たその言葉を思い出すたび、浮かぶのは愛染だ。いつも見ている自信ありげなアイツじゃなくて、会ったばかりの頃の少し下手くそな笑顔のアイツだ。
……もし、見失った愛をもう一度見つめ直さなければならないとしたら、心はどんな感情で溢れるものなんだろうか。
愛染に呼ばれてダイニングまで来た阿修は、肉まんの袋を見て目を輝かせた。
「あんまんも食べたかった~」とか「買うなら電話してよ!」とか言いながらも、最終的に肉まんを口いっぱいに頬張っている。
「ああ、あったかーい!ありがとう、ごうちん」
「おー」
礼を言われれば、まんざらでもない気持ちになる。始終賑やかなこの年下の男は、ものを食べている時だけ少し大人しい。それでも、やはりそれは口の中いっぱいに何か入っている時だけで、次の瞬間には「おいしいねぇ、ケンケン」と話し出していた。
それに同意して、愛染はもそもそと肉まんを口に入れる。コイツは食べ物をガツガツと食べたりしない。口が小さいせいだろうか。ちまりちまりと食べ進めていくので、同じ量のものを3人で食べると、一番遅くに食べ終わる。少し前まで愛染はそれを気にして、ろくに噛まずにものを飲み込んでいたこともある。そんな必要全くないのにだ。それに気づいてからは咀嚼になるべく時間をかけることにしている。
ここだけの話、ゆっくり食べるというのは、俺にとって考えたこともないことだった。そもそも、食への興味はそれほどない。美味いか、不味いかは感じても、とりあえずエネルギーになるのならそれでいい。音楽にのめり込んでいる間は、空腹なんて気にならない。気が付いたら腹が減ってるから、何か適当に口に入れて飲み込んで、またギターを持って、という感じだ。思いついた旋律を忘れないように、食べ物を口に押し込んで、最低限噛んで飲み込む。そういう時は、味も食感もわからない。気にもしていない。
だから、こうして阿修が「おいしい」と言って笑うのを見て、愛染に合わせるようにゆっくり口を動かす時間は、“食事”をしているなと思う。
そして、この時間が嫌いじゃないと思う。これも3という数字の魔力だ。おそろしい。
そんなことを考えていたら、もそもそ野郎と目が合った。
パチンと合った先で丸くなった目が、すぐにうろつく。おずおず下がっていく視線を追うと、もごもご動いていた口が笑みの形を作った。
……そうか、美味いのか。よしよし。
結局、愛染は何やかんや理由をつけて最後まで完食せず、残った肉まんを俺たちに割って寄越した。
それをペロリと一口で飲み込んだ阿修は、「歯磨きしてから寝ろよ」という小言から逃げるようにダイニングを出て行った。
愛染がマグカップに入っていた冷めたお茶を飲み干して、少し苦い顔を向ける。
「ごちそうさま」
「おう」
「美味しかった。けど、今度はもう少し早い時間にしてくれよ」
「まあ、また気が向いたらな」
その言葉に曖昧に頷いたアイツは、シンクでマグカップを洗い出した。明日も撮影があるはずだ、もう寝るつもりなのだろう。
気付かれないようにソファの上の台本を見る。表紙の角が歪んでいるのに、アイツは気付いただろうか。気付いてなくても、聡い最年少は分かっている。分かっていて声をかけないということは、俺とそう変わりない考えだってことだ。
水音が止まって、愛染がリビングへ向かう。台本を手に取ったのを見て、声をかける。
「寝んの?」
「え、うん。寝る」
「寝るなら、ちゃんと寝ろよ」
「なにそれ。……、おやすみ」
困ったように眉を下げたまま、背を向けた男を見送る。
明日はアイツが出かける前に起きて、もし目の下にクマなんかつくってやがったら、鼻で笑ってやろう。
置きっぱなしになっていたビニール袋の中からミネラルウォーターを出して冷蔵庫に入れて、今度は粒ガムを手に取る。反対の手で肉まんの入っていた袋を握った。それをごみ箱に投げ捨てて、リビングの電気を切る。
くわっと欠伸が出て、口の中に残っていた肉まんの匂いがした。
