麦茶は無残に捨てられた

 

テレビの中で、今日も『愛染健十』は完璧だった。そのことに、ほっと息を吐く。
間接照明だけつけた自室で、俺は何回も何回も早戻しをして、再生をする。『愛染健十』が映る時間を隅々まで見張る。少し寒いくらいに冷房を効かせて、タオルケットを羽織って、ソファでまるくなりながら。足を抱えるのは落ち着く。
テレビの中の『愛染健十』は、前髪もちゃんと決まっていて、女の子に優しくて、気障なセリフだって笑顔でするりと吐ける。それが、みんなのイメージするアイドル『愛染健十』。
テレビの中から出てきたって、気は抜けない。外にいる時間は『愛染健十』を演じ続けなければならない。
「だって、それが俺だから」
そうしないと、誰も俺を愛したりしない。
人には役割があって、それを演じるようにできている。それが自然にうまくできる奴は、愛され、人の中にキチンと溶けこむことができる。できない奴は、才能や富なんかと引き換えにそれを得て、それすらない奴は弾かれる。とても油断なんてしていられない。セロファンテープで、毎朝懸命に仮面を貼り付けて、剥がれ無いよう慎重に歩く。前髪をセットするときだって、油断はできない。前の日と同じ自分になれるように、完璧だという自信を無くしてしまわないように。初めて褒めてもらえた、認めてもらえた、あの瞬間を脳に焼きつけるためには、1ミリだって妥協はできない。そうしてセットした前髪を鏡で確認して、口角を少し上げれば、俺はその瞬間から『愛染健十』になれる。
でも、どこかに綻びが現れてはいないかと、いつだって不安でいっぱいだ。縫い目から現れる自分に怯え、糸を解かれる前に完璧に元に戻さなければいけない。脳内で『愛染健十』ならどうするかはじき出さなければいけない。
そのために、俺はまた映像を早戻す。コマ送りの1コマだって、本当の自分が見えていないことを確かめるために。

目が、疲れた。そう感じて、一時停止ボタンを押す。目の奥が重い気がして、目頭を軽く揉む。冷房による乾燥か、喉も乾いていた。
冷たいフローリングに素足を下ろして、ふるりと震えた自分の体を抱く。触れた手も、冷たくて誤魔化すように二の腕を摩った。
とりあえず、飲み物だ。俺は、キッチンへと向かうために立ち上がった。
確か今日は、悠太は昼からの仕事で遅くなるはずだ。朝から目の下に隈を作って眠そうにしていた剛士は自室で寝ているだろう。
扉を開けて廊下に出ると、むわりと熱気を感じた。もうすでに、冷房が効いた部屋に引き返したい。そんな気持ちを抑えて、扉を閉めた。

リビングは薄暗く、しんとしていた。そのことに安心して、キッチンを目指す。
ふと、リビングのソファが不自然に盛り上がっているのに気が付いた。だらりとソファに身を任せて寝息を立てているソレは、ここからはよく見えないが身長的に剛士だろう。
「あいつ、部屋で寝ろよ」
そう悪態をついたものの、朝の様子ではそれも仕方ないかもしれないと思いなおす。おそらく、居眠りの延長で本格的に寝入ってしまったか、部屋に戻るという選択もできないぐらいの眠気に襲われたのだろう。その穏やかな寝息を横目に、なるべく音を立てないようにそっと冷蔵庫のドアを開ける。オレンジ色の光が、目に沁みた。思わず目を閉じる。光に目を慣らすように、ゆっくりと開ける。少しだけ涙で歪んでいる視界に、麦茶の入ったガラスポットが映った。
(健十くんって、麦茶飲める?)
瞬間、恐怖に血の気が引いた。
(だって、いつもオシャレな飲み物とか飲んでるイメージだから)
ドアを開けた反動かゆらゆらゆれる麦茶は、俺の中の『愛染健十』を切り離そうとしていた。
(ハーブティーとか、デトックスウォーターとか。そういうの、普段から飲んでそう)
どこかで出会った女の子の高い声が脳内に響く。
(こうやってさ、ポット使って水出しして、麦茶なんか作んないでしょ?)
ああ、『愛染健十』が殺されてしまう。麦茶なんかに。何故なら、それは、俺が作ったものだからだ。
此処は、外ではないけれど。でも、俺一人じゃない。リビングには剛士が。
「ごうし」
そうだ、剛士がいる。ということは、メンバーに向けた『愛染健十』の仮面が必要だ。
しかし、こんな、前髪を整える鏡もない、こんな場所で。俺はきちんと『愛染健十』になれるのだろうか。いや、そもそも、俺は今、誰なのだろう。『愛染健十』ではない俺は、誰としてここに立っていて、誰として麦茶を作ったのだろう。ああ、光が目に沁みる。目の前がにじむ。『愛染健十』を探さなくては。ぽたり、と足の先に涙が落ちた。今日に限って、ハーブティーもデトックスウォーターも入っていない冷蔵庫の前で、俺は完璧な『愛染健十』を探していて、それで。
その時、ダンダンと床を蹴る音がして体が震えた。目を向けると、必死の形相で、眉を吊り上げた顔をした剛士がいた。瞬きすると、涙がこぼれて視界がクリアになる。
「ごう、し」
「ダレだ」
「え」
それは、俺のことを言っているんだろうか。剛士も、今の俺が『愛染健十』ではないと知っているのだろうか。では、彼はなぜ、こちらに来たのだろうか。わからない。
「誰に泣かされてんだ!」
彼が吠える。
何を、怒っているのだろうか。
誰に、泣かされたか?その誰とは、俺のことなのだろうか。俺が、『愛染健十』を泣かせているということか。それとも、『愛染健十』が俺を泣かせているのだろうか。
その考えを遮るように、剛士が「あいぞめ」と声にする。聞いたことの無い声だ。今呼ばれたのは、俺?『愛染健十』?どちらだろう。俺は、どんな顔をすればいいのだろう。
迷っている間に二の腕を引き寄せられた。バランスを崩した俺の唇に剛士がぶつかってきた。歯が唇をかすめてピリリと痛みが走った。眉間にしわが寄ったのが分かる。あたたかい。さっきまで眠っていたからか、触れた唇があたたかくて離れていくのが惜しい気持ちになった。だって、愛されている時間はいつでも、どこかがあたたかいから。一度離れて、もう一度触れる唇は優しくてどんどんと熱を帯びていっているような気がする。
(健十君は、経験豊富だから。キスも上手なんじゃないかな?)
(わかる~。余裕があるっていうか、リードしてくれそう!)
べろりと熱い舌で下唇を舐められて、我に返る。頭で響いた声と現在の状況の矛盾に恐怖し、その胸を突き飛ばした。
「な、に。なんで」
今のは、どの子の声だったんだろう。ああ言われたのは、いつのことだったろう。剛士の目に俺の顔が映る。ひどい顔だ。『愛染健十』はどこへ行った。
「ごうし」
俺は、誰なんだろう、剛士。お前の目には、誰が見えているんだろう。
「I’m c▲○zy @b!*t ◇?u」
ボソリと低い声で呟かれたそのセリフは、半分以上聞こえなかった。
「え」
「……悪い、寝ぼけてた」
今度ははっきりとした口調で言って、剛士は俯き大きく息を吐いた。寝ぼけていたのなら、俺を誰かと間違えたのか。だとしたら、さっきまでの俺は、剛士の中では俺でも『愛染健十』でもなかったということか……。
剛士は俯いたまま、じりじりと後退し廊下へと続くドアまでたどり着いた。俺は、さっき、ちゃんとその人の代わりを務められたのだろうか。ちゃんとその人を演じられなかったから、駄目だったから剛士は間違えたことを後悔して俯いているのか。胸が痛い。俺は、やっぱり誰かの1番の特別になれないの?『愛染健十』を持ってしても?
「ごうし」
一瞬でもいいから、俺を見てくれよ。誰か。ごうし。
「おやすみ」
目を合わせることもなく、苦しそうな声を残してと閉じられた扉に絶望する。
そして、今、死んだ。『剛士とキスをした間違いだらけの俺』が死んだ。

テレビの中で、今日も『愛染健十』は完璧だった。何人もの俺を殺し、その頂点で『愛染健十』は優しい顔で笑う。つぎはぎで作ったその仮面を、俺は明日も着け続ける。その仮面の下で、誰だかわからない俺がまた生まれる。『愛染健十』へと注がれる、愛を求めて。