目を閉じても眠れない夜があるなんて、そんなこと考えたこともなかった。とろとろとした思考が睡眠を求めてシャットダウンする直前で、「ごうし」という声が聞こえた気がしてハッとする。そんなわけはない。こんな真夜中にアイツが起きているわけがない。寝不足はお肌の大敵だと豪語するアイツは、今頃自分の部屋で眠っているはずだ。その寝姿を想像しそうになるのをなんとか振り払い、もう一度きつく目を閉じる。そうこうしている間に、空はいつの間にか白み始めてしまうのだ。
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「剛士。お前、顔ひどいぞ」
「うるせぇ」
「ほんとだ、すっごいクマ!」
寝不足で痛む頭を押さえながらリビングに入ると、すでに小奇麗に支度を整えている愛染とうるさい色のスエットを着こなした阿修が俺を見て口々にそう言った。愛染に至っては、眼前に鏡を押し付けてくる始末だ。確かに、目の周りが黒ずんでいるかもしれない。
「どうしたの、ごうちん!昨日、眠れなかったの?!」
「うるせぇっつってんだろ!」
阿修のデカい声に顔をしかめる。ただでさえ痛む頭がガンガン叩かれているような気がする。お前の声は、凶器か何かか。今だ押し付けられたままの鏡をぞんざいに押しのけながら、キッチンへと足を動かす。冷蔵庫から牛乳、備え付けのカウンターの上にあるバナナスタンドからバナナを1本取って手近なチェアに腰かけた。それを見て、呆れたように顔を見合わせた二人に舌打ちする。「ごうちんは相変わらず困ったちゃんだね~」と愛染に耳打ちするように話す阿修を睨みつけると、それに同意していた愛染が時計に目をやった。そして鏡をバッグにしまいながら、口を開く。
「俺、今から雑誌の取材だからもう行くな。剛士、今日オフだろ?ちょっとでも寝た方がいいぞ。悠太は昼からだっけ?気を付けて。じゃ、行ってくる」
愛染は早口でそう言い置くと、長い脚をさっさか動かしてリビングを出て行った。阿修の「ケンケンもがんばって~!」という声がそれを追いかけた。
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昼前に阿修が「いってきま~す」と玄関を飛び出して行くと、一気に眠気が襲って来た。アイツがいる間はいちいちあのうるさい声に反応してしまって、全然感じなかった睡眠欲がドッと押し寄せる。これではトレーニングにも身が入らないだろうと、自室に戻るのももどかしい体でリビングにあるソファを埋める。ふわりと、アイツの香りがした気がして唇を噛んだ。眠い。もう、眠ってしまいたい。このじわじわと膨れ上がる気持ちを無視して、忘れて、俺は、眠りたい。また、頭の中で声がした。「ごうし」と舌足らずのひらがなで俺を呼ぶその声は、俺の苦手な甘さをもって、しかし柔らかに俺の心をなぞった。
そんなフワフワした頭で思い出したのは、いつかの休憩時間の話だ。確か、澄空が見ている少女漫画の話をアイツらとしていて言ったのだ。「好きな人が夢にも出てくるって素敵ですよね」と。
それを聞いた阿修が好きな人がいるのかやら、そんな夢を見たことがあるのかやら騒ぎ立てて、困った様子であいまいに相槌を打つアイツを愛染もからかって。「ごうちんは、そんなことある?」と話をふる阿修を俺はくだらないと一蹴した。ワイワイとアイツらが勝手に盛り上がる中、少し熱っぽい瞳でアイツが言った。
「でもね、つばさ。夢で見ているうちはまだ心底惚れきっていないんだよ。本当に愛しいとね、眠れなくなるんだ」
だから、俺を想って眠れない夜を過ごしてみてよ。そう囁かれ、真っ赤になった顔をうつむける澄空と、「ずるいよ、ケンケン!」と騒ぐ阿修、甘いマスクをほころばせる愛染。そのすべてにイライラして「気持ちわりぃ」と呟くと、愛染はすぐさま「気持ち悪くない!」と反論した。そして、アイツの瞳が俺を映したことに安堵して、それに戸惑い「うるせぇ」となんとか口にした。
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かすかな物音がして、目を覚ます。外はすでに暗くなっていて、午後の時間のほとんどを睡眠に使ってしまったようだ。その証拠に随分と頭が楽になっていた。先ほどの音の正体を目だけで探ると、キッチンの一部からオレンジ色の光が漏れている。誰かが冷蔵庫を覗いているのだろう。俺に気付いているのかはわからないが、すぐに出ていくだろうと再び瞼を閉じる。
「ごうし」
それなのに、その音にすぐに意識が戻る。どろりとした感情が喉から出そうになるのを必死で抑える。冷蔵庫の前で佇む影は、まだ動かない。オレンジに照らされた、スカイブルー。光を反射して落ちた、何か。
瞬間飛び上がるように体が動いた。ぐつぐつした思考のまま、大股で、影へと近づく。立てた足音にようやく気が付いたのか、ビクつき振り返ったソイツのうつくしい目から、涙がはらりと落ちた。
「ごう、し」
「ダレだ」
「え」
「誰に泣かされてんだ!」
カッとした喉の奥から、唸るような声が出た。息が荒くなる、とても苦しい。目の前の男は驚きを隠さず、そのたれ気味の目を大きく見開いている。丸くなった目がまだ潤んでいるのが許せない。あいぞめ、自分でも聞いたことの無い声がした。衝動的に二の腕を引き寄せて、バランスを崩したアイツの唇を奪う。勢いがついて、キスというよりぶつかると表現した方が正しいその行為。歯が当たったのか、形のいい眉がきゅっと寄る。苦しい。息をするために一度離して、もう一度柔らかなそれにくちづける。鼻から抜ける弱弱しい声がする。ああ、せつない。べろりと温かな下唇を舐めあげたところで、長いその腕に突き飛ばされた。
「な、に。なんで」
混乱を露わにした瞳に、俺の顔が映る。ひどい顔だ。今朝鏡の向こうに見た顔より、よほど。
「ごうし」
その声。舌足らずに俺を呼ぶ、その声。いつも俺を寝かせない、お前の声。
「I’m crazy about you」
「え」
「……悪い、寝ぼけてた」
自分でも持て余す感情の波に、ぐらぐらとする。それでもなんとか、目の前で頼りなく狼狽えている男と距離をとる。俯き、呼吸を整えるために、息を深く吸うと愛染の匂いがして目がくらむ。じりじりと後退し、何とか廊下へと続くドアへとたどり着く。「ごうし」とその声が呼んでも、もう顔を上げることができない。その目を見てしまったら、おかしくなりそうで。
「おやすみ」
うまく言葉になっていたかは、わからない。廊下に出るなり、自室に駆け込む。素早く扉を閉めて、やっとちゃんと息ができた気がした。
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目を閉じても眠れない夜があるなんて、そんなこと考えたこともなかった。何とかたどり着いたベッドに横たわっても、眠気は一向に訪れない。昼寝をしたからというのも原因の一つなのだろう。しかし、明日は朝から仕事が入っている。少しでも眠りたい。唇にはまだアイツの温もりが残っていて、確かめるように舐めると甘い味がする気がした。きつく目を閉じる。ああ、ダメだ。思い出すのは、冷蔵庫の明かり。こぼれた涙。溶けそうな瞳。
ああくそ、今日もまたお前のせいで眠れない。
