立ち寄ろうと考えていた控室の前に、悠太くんが立っていたので声をかけた。
「おはようございます」
「あ、おはよう。つばさちゃん」
悠太くんはニコリと笑って、挨拶を返してくれた。疲れた体に元気が入ってくるような眩しい笑顔だ。
「たまたま近くまで来ていたので、挨拶に伺おうと思って」
「わあ、そうなの?ありがとう!」
「収録はたしか、3時からですよね」
「そうそう。ケンケンもごうちんも、まだ来てないんだ。今日は僕が1番乗りだよ~」
そういえば、愛染さんが「悠太は最近、1番早く現場に入ろうと目論んでいるんだよね」と言っていた。
グループ活動に加えて個々の仕事が入るようになると、必然的に3人揃って現場入りすることが少なくなる。今日のような午後入りの仕事は、特にそうだと聞いている。
個人の仕事は嬉しいけれど、僕は3人で一緒にいるの、結構好きなんだよね。と悠太くんがはにかんだ。
「でもね、僕がちょっと寂しいよねって言ったら、ごうちんなんて言ったと思う?「前室と移動中ぐらい、お前らの顔見ないで静かに過ごしてぇ」だって!ヒドくない?」
だから、出来るだけ1番に現場に入って、賑やかにお迎えしてあげようと思って。
そうやって張りきって出て来た悠太くんは、張りきりすぎたのか予定より随分早く到着してしまったらしい。なので、時間つぶしがてら、建物の中を散歩してきたところだそうだ。
恥ずかしそうに頭をかく悠太くんを微笑ましく思う。「そうなんですね」と相槌を打って、悠太くんが控室に入るのを待つ。
しかし、悠太くんはドアの前にいるにもかかわらず、ドアノブに手を伸ばす様子はない。
「あの、……入らないんですか?」
「うーん」
どうしたのだろう。煮え切らない返事に、首を傾げる。すると、悠太くんは私に向かって、「ここって、3階だよね」と聞いた。
「そうですね、3階です」
「そうだよね」
3階だと何か不味いことがあるのだろうか。不思議な質問にさらに困惑する。
その間もうんうんと唸っていた悠太くんは、眉をハの字にして言った。
「ちょっと、聞いてほしい話があるんだけど。いいかなあ?」
立ち話はなんだけど控室には入りたくない悠太くんに連れられて、エレベーターホールの横にあるベンチに腰かけた。自動販売機があればご馳走したんだけどね、とすまなさそうな顔をされて慌ててしまった。
「いえいえ!いいですよ」
「ごめんね。つばさちゃんから見たら、控室にも入らないで何してるんだろうと思うよね」
「ええと。……控室に入りたくない理由は、正直気になります」
「だよねえ」
悠太くんはうなだれて、もう一度「そうだよね」と呟いた。ふう、息を吐き出して、私の顔をチラリとみる。
「変な話なんだ。たぶん信じてもらえない、と思うんだけど、それでもいい?」
「はい」
「……そっか」
じゃあ、と言って悠太くんは話し出した。
◆
あれは2ヶ月くらい前だと思うんだけど、その時も今日と同じで、僕が1番乗りだったんだ。控室も、ちょうど3階の廊下の奥から3番目。そう、今日と同じ部屋だったの。
それで、ケンケンとごうちんをどうやって驚かせてあげようかなって考えながら、控室に入ったんだよね。
荷物を置いて、椅子に座ってさ。そこで、あれ?って思ったの。
あの部屋、前も使わせてもらったことがあるんだけど、部屋に入って右側にお化粧もできるように鏡があるんだ。その前に椅子が2つ並んでる。それで、左側には机があるんだよね。長めの机が2つくっつけてあって。そこに椅子が4つ。僕はいつもドアから一番遠い椅子に座るんだ。
だから、いつも通りに座ったら、入ってきたドアは僕の斜め右にあるはずでしょ?そうだよね。
そのはずなんだけど、ドアがね、斜め左側にあるの。おかしいでしょ?
でも、もしかしたら、僕の思い違いってこともあるなって。違う現場の控室と間違えて覚えてることもあるし。絶対なんて言えないなって。
だから、おかしいなとは思ったけど、気にしないことにしたの。後からケンケンかごうちんが来たら聞いてみればいいかなって。
それで、ケンケンが来るまで30分ぐらい待ったかな。その時は、僕がしばらく寝てるふりをして、突然「おはよう」って飛び起きる、っていうドッキリ作戦を立ててたんだ。
だから、机に伏せて待ってたの。薄目でドアが開くのを確認して目を瞑った後も、静かにジッとしてた。
だけどさあ、また、あれ?って。
ケンケンもごうちんもさ、挨拶はちゃんとするの。ドアを開けたら、「おはよう」って。まあ、当たり前なんだけど。社長にも、こういうお仕事をしている以上、挨拶だけはキチンとしろよって言われてるしね。それに、スタッフさんだって、何にも言わずに入ってくるなんてことないでしょ?
だから、ドアが開いた音がしたら、誰かの「おはよう」が聞こえるはずなんだ。でも、何も聞こえないの。今思うと、ドアが開いた音もしなかったかもしれない。そもそも、ドアって開いたんだっけ?って思って。
不安になって、目を開けて、顔を上げたの。
部屋には誰もいなかった。
ふふ。なあんだって、思うでしょ?
2人に早く来てほしいから、気持ちが先足っちゃったんじゃないかって。頭の中でさ、ごうちんが言うの。「慌てすぎなんだよ」って。
1人だったけど、恥ずかしくなっちゃって。もう1回寝たふりしようって、顔を伏せようとして。それで気付いたんだけど。
鏡の中に、ケンケンがいるの。
僕に向かって、ちょっと怒ってるの。
僕って言っても、僕じゃなくて、鏡の中で笑ってる僕。
たぶん、いたずらに成功したんだと思う。そう、寝たふり作戦。
僕、混乱しちゃって。
鏡に向かって、ケンケンって言ったの。「ケンケン、違うよ!」って。「それは、僕じゃない」って。
でも、鏡の中には僕の声は届かないみたいだった。呆れた顔しながら荷物を置いたケンケンが手前に座ったから、ケンケンって呼びかけたけど、駄目だった。
前髪を整えてるケンケンの前の鏡を叩いてみたりもしたんだけどね。
そうしているうちに、ごうちんが入ってきた。勿論、鏡の中の部屋に。僕がいた部屋のドアは開かなかったよ。
ごうちんが、ケンケンを見て何か言って、そこで気付いた。あっちの声も、こっちには聞こえないってこと。
ごうちんとケンケンが言い争ってる声も、僕が何か言ってる声も。
そうなって、やっと、鏡の中のケンケンとごうちんと一緒にいるのは、誰なんだろうって思った。
僕の顔して、僕の格好して、笑って、2人と一緒にいる。アレは何だろう。
いいなあ、ズルいなあ、って。すごく羨ましくなっちゃった。
急いであの部屋に早く行かなきゃ2人が取られちゃうんじゃないかと思って、僕はその控室から飛び出したんだ。
◆
エレベーターの扉が開く音が聞こえて、ドキッとした。悠太くんもビクリと肩を揺らしていて、動揺を分かち合うようにどちらからともなく笑った。エレベーターから降りてきた数人のスタッフが、反対側へ続く廊下を話しながら歩いていく。
それでさ、と悠太くんは言った。
「時間を伝えに来てたスタッフさんと、正面衝突しちゃった」
「廊下で、ですか」
「うん。僕もその人も、思いっきり尻もちついちゃって」
とっても痛かったよ。悠太くんはお尻を叩いておどけてみせた。
「すぐに後ろのドアから、ケンケンとごうちんが出てきてさ」
廊下に出てきた2人は、心配そうな顔をしていたのだという。
「いきなり飛び出すんじゃねえよ、ってごうちんに怒られるし。ケンケンはスタッフさんに頭下げてるし。僕もあわてて、一緒になって頭を下げたよ」
そう言いながら頭を上下させる悠太くんは、この間お土産で頂いた赤べこのようだ。その時もそうやって謝ったのだろうか。ううん、それよりも気になる言葉があったような。
「いきなり飛び出した?」
「そう。ごうちんが言うには、何か喋ってる途中で、僕がいきなり走り出したんだって。頭がおかしくなったのかと思った、なんて言うの。ケンケンは、くだらないいたずらの続きかと思った、だって。失礼しちゃうよね」
いたずらの続き、と愛染さんが言ったということは。悠太くんの見ていた鏡の中で起こっていたことが、現実で起こっていたということだろうか。
実は2日前 、私はあの控室に入っている。3階の、廊下の奥から3番目の控室だ。その日はMooNsの皆さんの収録日だった。
扉を開けると、右側に大きな鏡台があって、その前に椅子が2つ。部屋の中央に机が2つくっつけてあって、椅子が4つ並んでいた。机は、ドアから見れば左側にある。ドアから一番遠い席に座ればドアは右斜め前に見えるはずだ。
悠太くんの記憶は、何も間違っていない。
そうか、鏡の向こう側は反対なんだ。じゃあ、いきなり走り出したあの子は、やっぱり私だったのかな。
