ほんの気まぐれにコーヒーを、いつも作る量より1杯分多くした。それから、同じ時間に仕事が入っているアイツの使っているマグカップに注いでみた。それだけ。
白いマグカップに、黒い液体が揺らめく。別に、そのまま冷めてしまっても、捨てられてしまっても構わない。ただ、試みにそのカップが目につくようにテーブルの上に置いた。それだけ。
瞼の裏に貼りついたアイツのいけ好かない顔が、一瞬でも驚きに染まれば面白いと、頭の端っこで思ったから。それだけ。
動機としては、ただそれだけだった。
◆
「おにーさん。もうおねむの時間かな?」
風呂上りに廊下でそう話しかけられて、かぶっていたタオルの間から相手を睨みつけた。長い脚を持て余すように壁にもたれかかってコチラを窺う愛染が、口元に三日月のような笑みを浮かべている。意図的に俺をイラつかせることに関しては、コイツの右に出る者はいないんじゃないかと常々思う。
「喧嘩売ってんのか」
「まだ寝ないならさ、ちょっと付き合ってよ」
俺の不機嫌な声が聞こえていないかのように、柔らかな声で愛染が言った。何かを握るように形作られた右手をクイと傾ける。そのジェスチャーの意味をすぐには理解できずに、首を傾げた。頭にのせているだけだった湿ったタオルが肩へとずり落ちた。
そんな俺の様子を気にも留めず背を向けた愛染は、リビングへと続くドアを開ける。スルリとドアの向こうに消えるのを目だけで追うと、きちんと閉まらなかったドアの隙間から、白い指がひらひらと蝶の羽のように揺れているのが見えた。
憤りを覚えて、フンと鼻を鳴らす。
そういう態度が本当に気に食わない。そうやって誘えば、俺が大人しくついていくとでも思っているのだろうか。思ってるんだろうな。そうだろうとも。
アイツの外面目当てでキャアキャアとうるさい女どもは、確実についてくるだろうしな。
ムカつく。
すげえムカついているはずなのに、裏切り者の俺の足はふらふらと従順な犬みたいにその後を追いかけてしまう。
これじゃあまるで、アイツの周りのその他大勢と一緒じゃないか。リビングに入ったが最後、絶対アイツは思惑通りについてきた俺を見てせせら笑うに違いない。
だというのに、それを分かっているはずの足も心臓も、止まるどころか早く早くと急くように動くのだ。
そうやってドアまで行きつくと、利き手がすかさずドアノブを握る。
クソッ。なんてこった。足だけでなく、手も腕も裏切り者だったとは。
I’m such an idiot.まったく救いようがない。
◆
「はい、どうぞ」
という言葉とともに、渡された黒いマグカップは俺が普段使っているもので、その中では白い液体がしずかに波打っている。カップに触れると、じんわりとした温もりが指先を温めた。ほんのりと甘い香りが鼻孔をくすぐる。
俺がしっかりとカップを受け取ったのを確認して、ゆっくりと手を離した愛染のもう一方の手には、白いマグカップが握られていた。
「ちょっとだけ、蜂蜜拝借しちゃった。悠太には内緒ね」
人差し指を唇につけて、片目を瞬かせるというその気障ったらしい仕草といい、トロリと気をゆるした声といい、いちいち癇に障るやつだと思う。返事の代わりに舌打ちを返すと、愛染はくすりと笑った。
「まあ、飲んでよ。ほら、ぐぐいっと」
「オッサンくせえ言い方だな」
「はっ倒すぞ、おい」
揶揄った俺を低い声で威嚇した愛染は、すぐに気を取り直すように息を吐いて手近なソファに座った。そして、トントントトンとリズムをつけて隣を叩く。催促するように揺れる水色の瞳に見上げられて、俺は仕方なくそこに腰を下ろした。
仕方なくだ、仕方なく。だから、そう満足そうに目を細めて見ないでほしい。
途方にくれてしまうし、いたたまれないし、ムズムズする。
そう俺が落ち着かない気持ちを持て余しているうちに、アイツはマグカップへと意識を移した。
両手で包み込むようにカップを持ち上げて、ゆるく水面に息を吹きかけた後、そうっと縁に口をつける。ミルクを飲み込むタイミングにあわせて、喉ぼとけが上下する。
ごくり、ごくり。
飲み下して表情を緩める。唇の上の産毛にうっすらとミルクの膜が残っている。
その途端に、マグカップの中のものが、至極おいしいもののように思えてくるのは何故だろう。
思わず喉が鳴った。
「……剛士、冷めちゃうよ」
吐息に混ぜるように囁かれて、慌ててカップの中身を呷る。熱いと温いの中間の温度の液体が喉を通りすぎていく。肝心の味は全く分からないまま、ただ口内にうっすらと蜂蜜の香りが残った。
◆
「今日、そこにコーヒーが置いてあったんだよ」
ちょっと聞いてくれる?と問うたくせに、ろくに返事も聞かずに愛染はそう話だした。
とりあえず、へえ、と気のない相槌を打つ。顔の横で親指と人差し指を頻りにこすり合わせるのは、気持ちが落ち着いていないときに時々出る癖だなと思いながら。
「俺のよく使う、このマグカップに入ってて。まだ温かかったし、入れ間違いじゃないとしたら、たぶん俺のために淹れられたものなんだと思うんだけど。……でもさ、そういうことされるとさ。こう、ドキッとするんだよね。それに、なんか、ほら。勘違いしそうになると思わない」
愛染の手が、前髪に伸びる。
「かんちがい?」
「……好き、なんじゃないかって」
何か納得がいっていないという顔で、長い指に色素の薄い髪の一房をクルクルと巻き付けながら、愛染はそう吐き出した。未来のネコ型ロボットの道具か何かで吐き出した声を具現化できたとしたら、不明瞭で掴めなさそうなモヤモヤとしたものになりそうな調子だなと思う。
それが空気に溶け込むのを待って、「勘違いと言えば」と声を出した。
「俺も今、しそうになってる」
へえ、という軽い相槌は先ほどの俺の真似だろうか。真剣に話を聞こうかという感情がまるで込められていない。
「こんな時間に蜂蜜入りなんていう普段は飲まないホットミルクをわざわざ俺の分までマグカップに用意したり、無防備な表情で隣に招かれたりされると、期待しそうになる」
「ふうん。……ちなみにだけど、どういう期待をしちゃってるわけ」
「さっき、お前が言ったようなやつ」
そっかそっか、なるほどね、と愛染が頷く。それから唐突に、いじっていた前髪の一房を弾くように手放して、ソファの背もたれに倒れこんだ。グッと反ったせいで、隠されていた形のいい鎖骨が露わになる。
「でも。でもさ、それって所詮は一方的な勘違いとか淡い期待だろ。確信できているわけじゃないから、そうじゃない可能性も勿論ある」
「まあ、そうだろうな」
「だけどさー」
間延びした声を出した後、愛染は一拍分、間を置いた。そして、ガバリと体を起こす。
先ほどから落ち着きのない奴だ。
パチリパチリとまつ毛の音が鳴りそうな瞬きが、俺の呆れた視線を跳ね返す。いちいち小難しいことを考えているコイツの思考は、俺にはいつだって、さっぱり理解できない。
「だけど、もう1回同じことされたりしたらさ。本当に、心底気が重いことだけど、……ちゃんと好きだって認めることになっちゃうような気がするんだよね」
それなのに、分かりやすく困ったという感情を隠さずに眉が下がったり、まっすぐにコチラにむけられている瞳孔の開いたスカイブルーがやにわに危機感も警戒も感じさせることなく緩まったりすると、たまらない。その奥の秘められた熱を、暴きたくなる。無意識なのだとしたら罪深い。
「ちゃんと?」
「ちゃんと。勘違いじゃなくて。じゃないと、ツラいだろ。相手の行動に、もしかしたら~、なんて中途半端に期待するのは、精神的に良くないよ。全くその気がないんなら、勘違いが消えるか、期待をすっかり忘れるまで、出来れば何もしてほしくない」
「そういうもんか」
「そうだよ。だって、もともとそんなに嫌いじゃないもん。好きになるのなんて、自分の気持ち次第だろ。心で思うだけなら、すぐできる。相手の気持ちなんて関係なくできるんだから。問題は、勘違いを真に受けることで、相手に同じように思ってほしいだなんてバカな考えを持つことだよ」
バカな考え、ね。思わず口内の、唇の裏側の肉を噛む。
コイツの自分に向けられる感情への僻んだ考え方は、今にはじまったことではないし、必要以上に立ち入ることじゃないけど。
「面倒くせ。お前のごちゃごちゃした屁理屈は長いだけで、聞いててもつまんねえ」
「じゃあ、優しい俺が簡単にまとめてあげるよ。お前さ、本気でもないのに、興味本位で人を揺さぶるようなことするな」
でも、どこかで空しいと感じる。
好意を好意として受け取ってもらえないこと。
好意を好意として受け取れないこと。
この業界で仕事をしている以上は仕方のないことなのかもしれない。一つ年上だから、リーダーだからと役回りをこなす中で、コイツの周りにはいろんな好意も悪意も思惑も飛び交っている。そういうのには慣れているからと言って、引き受けている内に分からなくなっていくのかもしれない。
だとしたならば、と考えてしまう。
じゃあ、なんだ。俺たちからの、俺からの、気持ちも。
慣れているからって下手な笑顔を浮かべて、警告を含んで引かれている黄色い線の向こう側に突っ立っているお前には届かないのか。
心配も、信頼も、確かに芽生えていたこの思いも。
Come a little closer.そんな気持ちも。
「……面白がって様子見るだけのつもりが、かなりマジだって気づいたとしたら。そしたら、どうしたらいいんだよ」
「そんなの自分で考えなよ」
固い声でそう言った愛染が、いつの間にか空になっていたマグカップを持って立ち上がる。隣から温もりが逃げるのを惜しんで見上げた俺の視線をスルーして、カップの底を覗くように顔が伏せられた。
線を挟んだ向こう側、手を伸ばせば簡単に触れられそうなのに。いつももう少しというところで、身体を引かれる。そして俺の手は、空気をかきまわすだけでダラリと下がる。
悔しい、悔しい。
諦められずに睨み上げ、脳内で必死になって引き留められる言葉を探していると、愛染の腕が持ち上がり後頭部を掻いた。不意に、頭上でモゴモゴと薄い唇が動く。
「……まあ、しょうがないんじゃないの。マジなら」
そう言い置いて、アイツはそそくさとキッチンへと去っていく。
背を向けたほんの一瞬に見えた、ほんのり赤くなった頬とまんざらでもない表情が、俺の胸の底を駆り立てた。
「愛染」
スマートな足取りが、渋りつつも止まる。
「なに」
ばつの悪そうな声が返ってくる。
伸ばした指先が何かをかすめた。そんな気がした。
「ごちそうさま」
「う、ん」
聞き洩らしてしまいそうな小さな小さな返答が、床にポトリと落ちた。そんな自分に耐え切れなかったのか、逃げるように速足で、滅多に立てることのない足音を立てて、愛染がリビングを出ていく。
乱暴にドアの閉まる音がした。
(……なんだよ、アイツ)
「フハッ」
咄嗟に手を口元に当てる。こらえきれずに笑いが出た。
そのままもう片方の手も使って、鏡なんかなくても分かるほど、だらしなく弛んでいく顔を隠す。
(かわいい)
そうやって、どんどん戸惑えばいい。
焦ればいい、かっこ悪くなればいい、気持ちに正直になればいい。俺の前で、俺の言葉で、俺の気持ちで。
「クッ、ハハ」
自分用の黒いマグカップが視界に入って、すぐさま思い浮かんだ予定にまた笑いがこみあげてくる。この際、もっともっと切り崩してやろう。
申し訳程度に残っていたミルクを口に含むと、蜂蜜の他に先ほどは気づかなかったレモンの風味がほんのり隠れていた。
◆
目を覚ますために飲むコーヒーを、いつも作る量より1杯分多くした。それから、起き出してくる時間にあわせてアイツの使っているマグカップに注いでみた。それだけ。
白いマグカップに、黒い液体が揺らめく。いつもは手もつけない阿修のココアを少しだけ拝借して混ぜる。それから、そのカップが目につくようにテーブルの上に並べて置いた。それだけ。
入口のドアの向こうまで来て立ち止まった愛染が、どんな顔をして入ってくるのかを想像しながらほくそ笑んだ。それだけ。
目的は、お前だけだから。
Sugar,早く一緒にコーヒーを飲もうぜ。
