海の色は何色?そう聞かれたら、大半が青だと答えるだろう。そう、海の色は青だ。それは、上から見ても下から見ても。
海では深く深く沈むほど、太陽から届く光は水に吸収されて、暖かそうな色から見えなくなっていく。最初は赤が、次に黄色が、そして緑が。最後に残るのが青で、それもどんどん見えなくなって、最後にはどこまで続いているのか分からないような真っ暗な世界になる。
目立ちたがり屋に見える赤いタイも、海の中では灰色だ。浅瀬のカラフルさは観光用。後は青と黒しかない。魔法で光を灯さなければ、オレたちは全てものを青色だと思っていたのかもしれない。あの岩も、あの人も、自分自身も。青、青、青。
みんな青なら、そこに違いはほとんどなくなる。みんな同じで前ならえの小魚みたいに、区別がつかない。
青の世界。
そんな世界に違う色が1つ入れば、それはそれは目立つだろう。右に進む群れの中で左に進めば目立つように。
それらの違いは目新しく、最初は注目を浴びるだろう。変わっていると思いながらも、憧れや好意を持つものもいるかもしれない。でも青の世界の住人は、真似もできないし理解もできない。そのうち、新鮮さのなくなった色や行動はただの見慣れた個体となる。自分たちとは違う色の、違うことをする迷惑な個体だ。
はたして世界は、ソレを異物とみなす。
―――なんて、つまらない世界。
フロイドは1人で遊ぶのが好きだった。エレメンタリースクールに入る前の話だ。
同じ時期に生まれた兄弟たちはみんなで同じことをして遊ぶのが好きで、誰かがあの岩まで泳ぐと言えば皆何も考えないで頷いて、それに続いて泳いだりしていた。
そんなのは、何も面白くなかった。泳ぐのが遅い子を、みんなで「がんばれ!がんばれ!」なんて応援するのにも反吐が出た。みんなで遊びたいなら、手を引っ張ってやったらいいのに。ようやく岩場にたどり着いてホッとしているその子の顔も好きじゃなかった。岩場についたことじゃなく、仲間外れにならなかったことにホッとしている顔。
苦手なことをやらされて、それでもみんなに合わせなくちゃいけなくて。そんな楽しくもない遊びの、何がそんなにいいのだろうと思っていた。
群れは弱者を浮き彫りにする網みたいなものだ。一度そこから外れてしまえば戻れない、透明な網。
フロイドはそんな兄弟たちを横目に、貝殻や綺麗な石を拾ったり、小魚や小エビたちを追いかけたりしていた。1人で遊ぶのは楽しい。途中で飽きたら違うことをしたらいいし、合わせるなんて窮屈なことをしなくていい。
ふとその存在を思い出したとき、泳ぎの遅いその子はいなくなっていた。尾鰭の発達が上手くいっていなかったのだ。逃げられなかったのだろう。海ではよくあることだった。
よくあることなので、フロイドは何かの網に捕まった時、ああコレはダメかもなと思った。
ピカピカした光に吸い寄せられるように近づいてしまったのがいけなかった。珍しい魚かな、と思ったのだ。
網がグッと海面に引っ張られていくのを感じる。どこに行くんだろう。もう海には戻れないんだろうか。
そう思った時、「がんばれ!がんばれ!」と囃す声が聞こえた気がした。他人を楽しむような響きにムカムカしてくる。フロイドは自分の手を見て、ちょっとほつれている網の隅を見て、ギザギザの自分の歯を思い出して、イケると思った。ココで何にもしないのは弱虫みたいでイヤだった。
網を掻きむしったり、噛みついたりした。少し破れたところに尾びれを突っ込んで暴れた。
ビヨンビヨン揺れる網が上昇するペースが速くなる。海の外に出てしまえば、逃げられないような気がした。身体を捻って、全力で足掻く。網に入るのはイヤだった。何にも縛られたくない。「みんな」の中に、自分の位置を決めたくなかった。
そうしている間に、スッポリ網から抜けて、海の中に放り出される。海の中に出れば、コチラが有利だ。すぐに加速して海の底へと戻っていく。海面が遠くなる。助かった。
フロイドは他の兄弟たちと同じにならなかったことが嬉しかった。
上機嫌で遊び場に戻っていくと、兄弟の中の1匹がサンゴの下でキョロキョロしているのを見つけた。フラフラとさまよう姿は、迷子のようにも見えた。
「あれぇ、こんなとこで なにしてんの?」
声をかけたのは、気まぐれだ。彼はハッとフロイドを見て、驚いたように目を見開いた。
「あみに、つかまったと、きいて」
「あーうん、そうそう。びっくりした~」
「もどって、こないかと」
大きく息を吐く彼を、フロイドは不思議な気持ちで見ていた。海の中では危険がいつも隣にいるものだ。戻ってこないのが普通。なのに、彼は何でここに来たのだろう。オレがいないことを確認したかったんだろうか。……なんで?
群れでいる奴らも、危険が迫ればそこから逃げる。近づいていこうというヤツはいない。
フロイドは彼のことが分からなかった。でも、なにか言ってあげた方がいい気がした。
どこかから戻ってきた時の挨拶はアレだ。
「……ただいま~?」
「おかえりなさい」
驚きの表情を一転させて、笑顔でフロイドを迎えたこの兄弟こそ、彼の片割れ。のちのジェイド・リーチである。
それから、フロイドの横にジェイドがいることが多くなった。と言っても、いつも横にいるわけではない。まずそこが、群れを作って一緒のことをしたがる他の稚魚たちと違う。ジェイドは、自然な距離を取るのが上手かったのだ。
だから、フロイドにはそれまで通り1人で遊ぶ時間もたくさんあった。構われたくないなと思うときに、ジェイドは近づいてこない。だから、フロイド的には隣にジェイドがいてもいなくても、今までとそんなに変わった気はなかった。
ジェイドもジェイドでやることがたくさんあるのだろう。手伝いをしたり、何かをジッと観察していたりしていた。おしゃべりが好きなのか、誰かの悩み事や自慢話をうんうんと聞いていることも多い。フロイドはそれを見る度、あんなつまらない話よく聞いていられるな、と思った。
そうかと思えば、ジェイドはやることがないときにフッと現れて、かくれんぼに誘ってきたりする。フロイドが途中で飽きてかくれんぼが鬼ごっこになっても、彼は文句を言わなかった。むしろ「あなたは本当に気まぐれですね」と嬉しそうにしている。
人のことを言える立場かと言われるかもしれないが、ジェイドはマジで変なヤツだった。
だけど、彼は群れとしてフロイドを縛らないし、無意味な応援をすることもない。話を聞くのが上手で、面白い遊びやいたずらを考えてくれたりする。
ジェイドの隣にいる時は、他のヤツの隣にいる時より楽だった。1人で遊ぶ時間を、2人で過ごす時間に変えてもいいと思うくらいには。
稚魚の頃のフロイドは、母さんによく怒られる子だった。揃っている置物をあえてバラバラにしてみたり、庭を掘り返して穴ぼこだらけにしたり、帰ってこいと言われていた時間を忘れて遅くまで帰って来なかったりしていたからだ。勿論、困った母さんが構ってくれるので(小さい子あるあるだと思う、稚魚だったから)というのもあるが、フロイドは自分がしたいことを我慢できない子だった。バラバラの置物はその方が綺麗に見えたし、掘り返した穴の下にはたくさん宝物が埋まっていた。ちょこまかと泳ぐ小魚を追いかけて楽しくなって、時間を忘れてしまうのはいつものことだった。
そんな時、母さんは決まって「ちょっとはあの子を見習いなさい」と指を差した。差された先で、ジェイドは困ったように笑っていた。
確かに彼はフロイドがするようなことをしない。それはフロイドがやりたいことを、ジェイドがやりたいと思っていないからだ。やりたくないことをわざわざやろうとするヤツがいるだろうか。でも確かに、ジェイドはやりたいことをやっているはずなのに、滅多に怒られたりしていない。前に怒られているのを見たのは、フロイドを迎えに来た日だっただろうか。あの日は帰るのが遅くなったから。
でもそうやって怒られた後、ジェイドは必ずフロイドの傍にやってきた。そして「あの棚は色が綺麗に揃ってましたね」とか「さっき見せてくれた大きなホタテ貝は、どこに埋まっていたんですか」とか「すばしっこい小魚は捕まえられましたか」とか、そんなことを尋ねる。一体どんなことをして楽しんだのかその時フロイドはどうしたのかを聞いて、最後に必ず「フロイドは見ていて飽きないです。とても興味深い」と言った。「今度は僕も一緒にしたいです」とも言った。
あー、その後に一緒に怒られた記憶がある。一緒に小魚にリベンジをして、やっぱり帰るのが遅くなったのだ。お揃いのたんこぶを指さして、2人してお腹を抱えて笑った。
母さんは怒ると怖いけど、怒った後は少しだけ甘えさせてもくれる人で「フロイドにやりたいことがたくさんあるのはいいことよ」と言って、いつも頬にキスを落としてくれた。
稚魚たちがエレメンタリースクールに入学する季節になると、フロイドたちの地域では水泳の競技会が行われる。地域の新聞にも大々的に記事にされる、まあまあ大きな大会だ。そこにフロイドが出場することになった。近所で追いかけっこが一番得意だったフロイドは、ジェイドに「速く泳げる人魚がたくさん集まるんですよ」と教えられて1ヶ月も前から楽しみにしていた。入賞を目指していたわけではない。速く泳げる人魚と競争してみたかったのだ。どれだけ速いのかとわくわくしていた。
結果的にフロイドはエレメンタリースクール部門で2位だった。1位は身体の大きなカジキの人魚で、フロイドの2つ上だった。もうちょっとで追いつけたのにな、という差で負けたけど、フロイドはとても満足していた。彼がとても速かったからだ。去年も彼が1番だったと言うから、ここら辺で一番泳ぐのが速いのは彼なのだろう。彼は優勝者インタビューで「僕は泳ぐのが好きで、毎日朝昼晩町はずれの大きな岩まで泳いでます」と答えていた。フロイドは単純にすげーなーと思った。そんなに泳ぐのが好きなら、速く泳げるのも当然だ。自分なら毎日は無理だなーと考えながら、次いで聞かれたインタビューには「速い人たちと泳げてすごく楽しかった」と正直に答えた。
家に帰ってから、ジェイドにも家族にも「すごかった」「速かった」「えらいぞ」と褒めてもらえた。棚の1番目立つところに飾ってもらった銀メダルを見て、嬉しくてたまらなかった。
次の日、教室に入るとクラスメイトがフロイドのところに来て「昨日はすごかった」と言ってくれた。フロイドは嬉しさを隠さず、声をかけてきたみんなにお礼を返していく。ジェイドが隣で誇らしそうにしているのも嬉しい。途中で「騒がしいですよ」と教室に入ってきた担任の先生も、その顔を緩めて褒めてくれた。
その日の放課後、担任の先生から呼び出され、地域のスイミングクラブに入ってはどうかと勧められた。そこに行けば、もっと速く泳げるようになるらしい。フロイドは確かに体を動かすことは得意だ。だけど、速く泳いで勝つことには興味がなかった。そもそも速く泳ぐことはフロイドにとって小魚を追い詰めるのにすることで、あのカジキの人魚みたいに朝昼晩と熱中するほど1番好きなことではないのだ。
もちろん、先生には素直にそう伝えた。ところが教育熱心だったその先生は納得してくれず、見学だけでもと引き下がった。その話は両親にも届き、結果、フロイドは体験入部という形でスイミングクラブに通うことになる。
スイミングクラブのコーチは、やたら大きな声で笑う岩みたいなマグロの人魚だった。「毎日練習して身体を鍛えれば精神も鍛えられる」が口癖だった。今思うと、バルガスにちょっと似てるかもしれない。初めましての挨拶で「よろしくな!」と肩を強く叩かれたときから、彼のことは好きになれそうにないと思った。
スイミングクラブは、3日に1回クラブ活動がある。フロイドの他にも体験入部として入った人魚が5、6匹いて、初日はそいつらと追いかけっこをした。クラスのヤツらとの追いかけっこより楽しかったのを覚えている。次の活動日は宝探しをして、その次は洞窟探検をした。先生が「もっと速く泳げるように」なんて言うから、カジキの人魚みたいに朝昼晩町はずれまで泳ぐのかと思っていたフロイドは、思ったより楽しいクラブ活動に心が躍っていた。家に帰ると、ジェイドにその日あった活動を真っ先に話して聞かせるくらいには。
ジェイドは良かったですねと笑って聞いてくれた。
4回目になる日の活動は、500メートル先の岩まで泳いで帰ってくるというものだった。
タイムを取ると言ってタイムウォッチを握るマグロのコーチを鬱陶しく思いながら、「よーいドン」の合図でフロイドは泳ぎ出した。岩まで行って帰ることはそう難しいことではない。フロイドはトップで戻ってきて、何気なく後ろを振り返った。その時、コーチの「もう少しだ!がんばれ!」という声が耳に入ってきた。
愕然とした。
稚魚の群れじゃん。そう思った。ゴールを目指して泳いで、「がんばれ!がんばれ!」と励まして。小さいとき、ああはなりたくないと思っていたヤツらの1匹に、自分がなっている。怖い、と思った。何も考えずみんなと同じことをしている自分が。名前も知らないようなヤツらの群れの一部になっている自分が。
その途端、全てがどうでもよくなってしまった。
どうしてオレはスイミングクラブになんて通っているんだろう。速く泳いで何になるんだろう。なんでオレはこんなとこにいるんだろう。
そう思ったら、すぐにでも帰りたくなった。ジェイドと遊んでいた方が何倍もいいと思った。
尾鰭で水を蹴る。
帰りたい。こんなところにいたくない。ダルい。いやだ。
そうやってしばらく進んだとき、腕を掴まれた。
「リーチ!どこに行くんだ」
コーチのデカい声に、イライラした気持ちが煽られた。
「帰る」
「まだ、今日の練習は終わっていないぞ」
「やりたくない」
体験入部というのはお試し期間のことですよ。嫌になったらやめていい、ということです。
そうジェイドが言っていた。嫌になったから、もうやりたくない。やめたい。
「まてまて、お前はまだ何もやっていないじゃないか」
「もう、いい」
「そう言うな、リーチ。さっきのタイム、すごく良かったぞ。このまま練習を続ければ、今度の大会では優勝間違いなしだ。俺が保証する!」
保証なんかされても嬉しくない。練習を続けるなんて、とても出来そうにないのに。
「いやだ」
「最初はみんなタイムが伸びるか不安なんだ。大丈夫、俺がついてるからな」
連れ戻そうとする太い腕が、煩わしくなった。逃げられない網に捕まったみたいだ。
そう、網、あの時は。
フロイドは自分の手を見て、油断しているマグロの人魚を見て、ギザギザの自分の歯を思い出して、イケると思った。
そして、ガブリとその腕に思い切り噛みついた。
驚いたコーチが、腕を振る。反射的に手が出たのか、意図的だったのかは分からないが、反対側の拳がフロイドの腹を叩きつけた。その勢いで、フロイドはコーチから離れるように流された。
「戻ってこい」と彼は言った。その腕からは薄く血が出ていた。
フロイドは腹を押さえて、それでも何もかもを振り切るように家へと全力で泳いだ。
家に帰りつくと、すぐにベッドへと向かった。リビングで本を読んでいたらしいジェイドが、驚いてやってきて、「フロイド? どうしたんですか?」と聞く。
ジェイドに理由を聞かれても、フロイドは何も言えなかった。
黙りこくって丸まるフロイドを見て、ジェイドはそっとベッドの端に寄った。
「嫌なことでもありましたか」
「……うん」
「僕にも、言えないことですか」
「ほっといて」
「そう。……わかりました」
ジェイドの気配が、そっと離れる。痛む腹に手をやって、フロイドはこれからどうしたらいいのかと考えた。そして、そのまま眠ってしまった。
目を覚ましたのは次の日の朝だった。とっくに登校する時間は過ぎていて、フロイドは驚いて起き上がる。急いで向かったリビングには母さんがいて、フロイドを見るなり「ご飯にする?」と笑った。そしてフロイドの返事も聞かずに、朝食だか昼食だか分からない食事を出してくれた。
それから、母さんは「もう、スイミングクラブにはいかなくていいわ」と言った。
後からジェイドから聞いた話だと、スイミングクラブのコーチはクラブの生徒たちに手を上げていたのがバレて、解雇になったらしい。もう興味もないことだけど。
「ジェイドといっしょにいるのが、1番おもしろい。他は、もういいや」
それだけ、ちゃんと言葉にした。ジェイドは「僕もです」と言って、そっとフロイドの頭を撫でた。
それから、フロイドは前のようにクラスメイトと一緒に遊ぶことをやめた。
学校にいる奴らが、ジェイドとそれ以外になったからだ。
どうしてスイミングクラブに行ったか、考えてみてわかったことがある。何故ってそれは、みんなが褒めてくれたからだ。ジェイドもそうだけど、両親もクラスメイトも担任の先生も、みんなフロイドを褒めてくれた。嬉しかった。だから、そうすると喜ぶだろうと、また褒めてもらえるだろうと思ってしまった。
だけど、そこに自分の考えがあったかと言われれば、“なかった”のだ。最初から、スイミングクラブに通って速く泳げるようになろうという気持ちも、次の大会で優勝する気も、フロイドにはなかった。
流された。そう、フロイドはあの稚魚の様に周りの目に負けた、弱虫になっていたのだ。だから、もう周りに流されたりしたくない。周りに合わせて、イヤな気分にはもうなりたくない。
どうすればいいかなんてことは、分かってる。自分の好きなことをするのは昔から得意だから。
何を言われても、自分のやりたいことだけに集中すればいい。
ジェイドは。ジェイドは、いつもオレのことを邪魔しない。だから、ジェイドだけは大丈夫。
なんだ。決めてしまえばなんて簡単なこと。
楽しくもない、面白くもない。そんなものに時間を使ってただなんて、最悪じゃん。
あーあ、最初からそうすればよかった。
ただ、フロイドが境界線を作ったことで、周りの反応もガラリと変わった。
「ジェイドくんの方がやさしい」
「ジェイドくんは、大人しくて真面目なのにね」
「顔が似てるのに全然違う。ジェイドの方がマシ」
そういう言葉を、ヤツらはフロイドに浴びせ始めた。
ジェイドならジェイドくんだったらそんなことジェイドは。
何なの、ジェイド、ジェイドって。
鬱陶しい。
彼は自慢の兄弟だから、彼を褒めるのはいい。ジェイドは“いいヤツ”だから。
ただ、褒めるなら直接ジェイドに言えばいい。
「ジェイドくんはやさしいね」
「キミは大人しくて真面目で助かるよ」
「ジェイドはいいやつだな」
そう、ジェイドに言えばいい。その通りなんだろうから。
最初は、姿が似ている彼と自分を間違えているのだろうか、と思ったこともあった。実際、ジェイドの名前で呼び止められることもよくあったからだ。フロイドたちの容姿は、自分たちではそんなに似てないなと思っていても、他人には同じように見えるらしい。
ちょっと似ているところがあっても兄弟だし、当たり前だ。
間違えたとしても、「ごめんね」と謝られれば、別にフロイドは気にしなかった。オレたちを初めて認識したのなら、そういうこともあるかもしれないな。そんな風に思えた。
でも「紛らわしい」とか「お前じゃない」とか言われるのは、イラついた。
ジェイドがいいなら、間違ったりすんな。バカ。
そっちの都合を押し付けてくんな。オレもお前なんてお呼びじゃねえよ。
ジェイドが嫌な訳じゃない。
同じものとして、勝手に1つにされるのが嫌なのだ。
褒める時はジェイドの名を、気に入らないことがあればフロイドの名を。
ヤツらはそうやってオレ達を判別した気になっている。ジェイドを通して俺を見て、オレを通してジェイドを見ている。
一部だけを見て、もっともらしい枠にはめられるのは窮屈だ。
ジェイドは賢くて、面白くて、時々イカれてて。愚かさを知ってて、変なこだわりがあって、優しいやつ。
一緒にいると楽だ。
ただ、オレはジェイドと色々なことを共有はしたいけど、彼と同化したいわけじゃない。
同じわけない。同じなわけない。そんな、つまんないこと言うな。
直接オレに文句も言えない、うるさい雑魚どもが。
◆
「タコちゃん」
そう呼ぶと、彼は少しだけこちらを見た。ほんの少しだけ。
後はずっと本を読んでいる。
フロイドは、その顔に青あざを見つけて、「痛そう」と口の中だけで呟いた。
ついこの前、それを声に出したら逃げられてしまったから。
どう間違ったのか、「うまそう」に聞こえたらしい。「紛らわしいから喋るな」と言われたので、今日はあまり喋らないようにしようかと思っている。気が変わるまでだけど。
タコちゃんは、いじめられっ子というやつ、らしい。
グズとかノロマとかって言って、暴力を受けている、らしい。
らしい、というのもそういう場をちゃんと見たことがなかったから、そうとしか言いようがない。
つい最近まで、フロイドは彼のことを目にも入れていなかった。だって、ジェイド以外のヤツだったから。全く興味がなかったのだ。
彼が、ジェイド以下、それ以外のヤツ以上としてフロイドに認識されたのは、本当に偶然だった。
偶然、昼寝中に罵声を聞いたのだ。
「気持ち悪い」とか、「図に乗るな」とか、「無駄な努力」とかいう、断片を聞くだけでも鬱陶しい罵声だった。
校舎の陰になっている岩場は、いつもは静かなのに、その日だけなぜか騒がしくてフロイドは目を覚ました。
うるさいな、と思った。どんなヤツだ、と岩陰から覗いてみると、タコちゃんと何人かの人魚がいた。タコちゃんは何を言われても黙っていたし、叩かれてもやり返すこともなかった。ただただ食いしばるように、ジッと相手の顔を見ていた。
その目が相手を煽って、さらに強く叩かれても。まっすぐまっすぐ、彼らを見ていた。
そのうちに予鈴がなって、彼らは校舎へ戻っていった。
タコちゃんはいじめていた彼らの背中に向かって、「今にみてろよ」という言葉を墨といっしょに吐き出した。
その丸い手がギュッと強く握りしめられるのを、フロイドは見ていた。
そのうち、彼は足元に落ちていた分厚い本を丁寧に拾い上げる。紫色の表紙には、金色の魔女の紋章。
彼は本に付いてしまった砂を優しく掃って、ゆっくりとした泳ぎで校舎に戻っていった。
次の日、教室の隅にそのタコを見つけた。担任が出席を取るときに、その名前がちゃんと呼ばれるのを聞いて、クラスメイトだったのかと、フロイドは思った。彼の名前は、アズール・アーシェングロットというらしかった。
「例えば、足がたくさんあるからといってイカとタコが一緒な訳ないし、いくらそっくりでもノコギリエイとノコギリザメは別の個体だろ。でもそういう違いは、違いをしっかり認識してないと分からないんだよ」
彼はそう言った。慰めてんのかなー、と思った。
アズールと知り合って、なんやかんやでジェイドと3人でつるむ様になってから、ある習慣が出来た。彼が勉強をする傍で、その日あったことを喋ることだ。勉強中のアズールは集中力がすごいのに、いい具合に相づちを打って聞いてくれるから、面白い。絶対聞いてなかっただろうなってことも、覚えてたりする。(お前の話は話半分に聞きます、と彼は言っていた。話半分って、半分は聞いてるってこと?)
時々、ホントに聞いてるかなと思って彼をからかってみたりすると、足が飛んでくる。タコちゃんは、結構足癖が悪い。
ちょうどその日は、ジェイドが当番活動の日で、それをアズールと図書室で待っていた。
オレはまたジェイド関連でよくわかんないことを言われてイライラしてたから、それをちょっぴり愚痴っていた。
その時言われたのが、さっきのセリフだ。その手はしっかりペンを握って、まっすぐな視線も手元にそそがれている。いつも通り、だった。
「認識、ねぇ」
「例えば、ここに僕そっくりなタコの人魚がいたら、お前はどうやって見分ける?」
「名前を呼んでみる」
「もし、どっちも返事をしたら?」
「ええ~」
フロイドは、2匹目のアズールを想像してみた。そっくりかぁ、と思い描いて、彼が2匹いたらそれはそれで大変だなと思った。
「聞くけど、そのもう1匹はアズールじゃないんでしょ?」
「そう、違う個体。でもそっくり」
「ソイツは、何が違うの」
「さて。それは、お前が判断することだから」
彼はそう言って、手元の魔導書のページを捲った。フロイドはその指の動きを目で追って、机に突っ伏した。
「でもアズールはアズールじゃん」
「その根拠は? 何を僕として判断してるんだ」
判断、と言われても。アズールはアズールでしかない。ジェイドではなく、それ以外でもない。
「じゃあ、アズールはオレとジェイドをどう見分けてんの」
「僕が話しかけた時、ちょっと馬鹿にした目をするのがジェイドで、あからさまに面倒だって目をするのがフロイド」
「なにソレ」
机に頬をくっつけたまま、アズールを見上げる。彼は口元に笑みを作っていた。
からかわれてると知ったフロイドは、机の脚を尾鰭で蹴り、不満を表す。すぐに「やめろ」という声が上がった。
「僕から見ると、お前たち兄弟は結構違うけどな」
「たとえばぁ?」
「例えば? うーん。僕が話しかけた時、」
「面倒って目してないし」
「してる時もある。……ジェイドは、僕の声を聞こうと耳を近づけてくる」
「耳」
「そう。こう、屈みこむ感じで、返事を待つみたいに」
「じゃあ、オレは?」
「フロイドは、目を見てくる」
「目」
「これは憶測だけど、なんだか、ちゃんと前を見てるか確認してるみたいに」
手元を見ていたはずのアズールと目が合った。まっすぐまっすぐ、フロイドを見ている。
あの時見た、まっすぐ前を見る、意思のある目。
アズールが、アズールであると知ったきっかけだ。
「……そっか」
「あれ、何を確認してるの」
「アズールかそうじゃないか、どうか」
「何か他と違う?」
「全然違うよ。さっきのもう1匹のタコと比べても、きっと違う」
彼は少し不思議そうに自分の目に手をやる。そして、少し考えた後、言った。
「でもそれは、フロイドしか分からないことだと思う」
「オレもそう思う」
「じゃあ、そういうことを他の人魚にも望めばいい」
「え」
「その間違えたやつが、フロイドのことを判断する何かを、ソイツに見つけさせてやればいい」
一瞬、ゾワリと冷たいものが背筋を走った。
「ヤダ」
「イヤなの?」
「ヤダよ。気持ちわりぃ」
「でも、さっき言ってたのはそういうことだと思うけど。もっと自分を知ってほしいってことだろ」
「違う、」
「じゃないと、違いなんて分からないよ。みんな、種類が違うだけの“人魚”っていう生きものなんだから」
僕らが人間の姿を全部一緒だって思うようにさ。と言って、アズールは視線を手元に戻した。なんだか知らないけど、視線が外れたことにホッとした。
「……けど、なんかイライラすんだもん」
「嫌なら、こっちから「間違ってる」って言えばいいのに」
止めていたペンの動きを再開させて、彼は何でもないように言葉を吐く。
「フロイドは案外やさしいよね」
やさしい? それはいつもジェイドが言われていることだ。
オレは、やさしくなくて、不真面目で、悪いヤツだから。
みんな、そう言う。言ってくる。
……みんな? ああ、網だ。出た出た、みんなという透明の網だ。
アズールは、いつもそういう網が見えないように話す。
「お前のこと知ろうと思ってないから、間違うヤツは何度だって間違うし、ジェイドと比較してくると思う。お前が言うように、ジェイドを善、フロイドを悪として。ある意味興味がないんだよ。それが、正しいと思ってるから」
アズールは淡々と言葉を吐き出していく。まるで本の朗読でもしているかのようだった。
「そうやって自分が正しいことを言っていると思ってる相手を正そうとするのは、時間と根気がいる。自分が悪いこと言ってるだなんて、ちょっとも思ってないんだから。そういう“善のようなもの”を信じているヤツらは、直接悪口を言ってくるヤツらより面倒だ」
ボキリと鈍い音がした。彼の手の中で、魚骨のペンがひしゃげていた。タコちゃんは案外怪力だ。
「そういう正しさを当たり前な顔して他人に押し付けてくるヤツらを、僕は軽蔑してる」
そう言ったアズールの目が、まっすぐまっすぐ前を見ていた。
だから、フロイドは言った。
「オレもぉ」
