ジェイド・リーチという男の話 - 2/3

 

この世に生まれ出て、まだ何も知らない無垢な「赤ん坊」は、ひどく弱い生き物だ。
人間にしろ、魚にしろ、人魚にしろ。その事実に変わりはない。弱いゆえに守られて、大事にされる貴重な存在だ。
加えて、人魚という存在は所謂「希少種」。全体的に個体数の少ない存在であるため、仔魚や稚魚はそれはそれは貴重であった。
ある国では観賞用に、ある国では煎じて長寿薬になる。
要するに貴重な存在という、格好の獲物であった。

物心がつくかつかないかという年齢で、ジェイド(人魚は仔魚や稚魚の間に死んでしまう確率が高く、エレメンタリースクールに通えるようになるまで名前を貰えないのだが、便宜上ジェイドとする)はまだ少ない知識の中、最適解を出すことが生き残る秘訣だと知った。短い人生(魚生)の中でも、それなりに経験したことがあるからだ。
やっと尾びれを上手に使って泳げるようになった頃、狂暴な魚がやってきて最初に泳げるようになった兄弟が食べられた。その場にいたのはジェイドと何人かの他の兄弟たちだけ。自分も死ぬかもしれないと思ったとき、その魚の特徴的な目の動きや鰭の動きが次に進む方向を示していることに気がついた。
その時は無我夢中になって逃げたが、ジェイドはその時の魚の特徴をちゃんと頭に叩き込んだ。今度同じヤツが来ても大丈夫なように。
彼は、食べられた兄弟と自分にそれほど差がなかったことをちゃんと分かっていた。少しでも行動が予想できれば、生存率がグッと上がる。1秒でも無駄にすれば、今度食べられるのは自分だと思うと体が震えた。
海藻やサンゴ、岩場を使って狂暴な魚から逃げるすべを身につけた頃、1番体が小さかった兄弟が密猟者に捕らえられた。チカチカと光る何かに興味をひかれ、海面の方に向かって行ったその子は、突然現れた大きな網に捕らえられて戻ってくることはなかった。
密漁の意味も人魚の希少さもジェイドはまだ知らなかったけど、狂暴な魚に食べられるのと同じくらい怖いことだと感じたのを覚えている。
チカチカに注意する。おかしなものには近づかない。
ジェイドはまた頭に叩き込んだ。もし自分が攫っていく立場ならどうやって興味を引くだろうかと考えることもした。それは彼にとって苦ではなく、言い方は悪いかもしれないがゲームみたいなものだった。
死なずに生き残るための未来予想ゲームだ。それはつまり、先んじて最適解を出すということだった。

最初は難儀したものの、ジェイドにはどうやら予想や予測の才能があったようだ。
そのうち両親や兄弟の次の動きがおおよそ分かるようになった。
晩御飯の内容、その日の散歩コース、じゃんけんで次に出す手。
それらが7割程当たるようになると、ジェイドは「何かしてほしいことはありませんか」と聞きまわり始めた。純粋なお手伝いと思われるようにしたそれは、彼の未来予想ゲームのうちの1つだった。相手のしてほしいだろうことを予想して、先に終えておく。そして、相手が「○○して」と言った後、もう終わっていることを告げるのだ。
例えば、朝ポストから取り出した朝刊を持って母親の元に行き、「何かしてほしいことはありませんか」と聞く。母親が「朝刊を取ってきてほしい」と言えば、後ろ手に持っていた朝刊をサッと出して「これですね」と言うのだ。もし違うこと、「朝食の準備を手伝ってほしい」と言われたとしても「わかりました」と返事をして、「そういえば朝刊を取り出しておきました」と言えばいい。
小さな望みを先に叶えると、相手がまるでマジックを見たかのように驚くのが面白い。相手にも自分にも利点があり、予想の精度を上げることが出来る。一石二鳥のゲームをジェイドは日常的に楽しむようになっていった。

とはいえ、ゲームというのは負けが続きすぎても勝ちが続きすぎても、つまらなくなるものだ。
ジェイドの未来予想ゲームは、コツを掴めば掴むほど退屈になっていく。相手が自分の思った通りにしか行動しないからだ。別に相手が悪いわけではないのだけれど、もっとこう全く予想外のことをしてくれないものか、と思うようになっていた。兄弟のうちの1匹が時々突拍子もないことをするから、その時だけは気分が踊った。
そんな時、その予想外のことをする兄弟が密猟者の網に捕まったと知らされた。
ジェイドは慌ててその場所に行ったが、教えられたサンゴの森はいつも通り薄暗くチカチカの光も、あの兄弟の姿もなかった。
遅かったのだと思った。
あれだけ突拍子もないことをしていたのだから、彼は好奇心が旺盛だったのだ。それなら、密猟者の罠を面白がってしまっても仕方ないのかもしれない。
ジェイドなら予想できたはずだった。ただ、あまりにも彼がトリッキーだから、普通には当てはまらないのかもしれないと思ってしまった。
兄弟は特別元気がよかったから、捕まってすぐにビックリして死んでしまうなんてことはないかもしれない。でも、ここにはもう戻ってこないだろう。これまでの兄弟たちは、みんなそうだったから。
サンゴの森の片隅で、ジェイドはひどく後悔した。
何か一言忠告できていれば違う結果になっていたかもしれない。「チカチカに近づくのは危ないですよ」とか、「おかしいと感じたらすぐに逃げてください」とか。
何で言わなかったのだろう、と考えていた時、上の方から声がした。
「あれぇ、こんなとこで なにしてんの?」
驚いて顔を上げると、それはいなくなってしまったとばかり思っていた兄弟だった。
「あみに、つかまったと、きいて」
「あーうん、そうそう。びっくりした~」
「もどって、こないかと」
初めての感覚だった。今までの経験や予想を、彼は大きく大きく打ち破ってきた。
ビックリするのはこちらの方だ。いや、それよりもずっとホッとしている自分がいた。
予想が外れたのにこんなにうれしく思うなんて不思議だ。
「……ただいま~?」
「おかえりなさい」
網の中で大暴れして自力で海の底に帰ってきたこの兄弟こそ、彼の片割れ。のちのフロイド・リーチである。

そんなことがあった後から、ジェイドはフロイドをよく観察し、一緒に過ごすようになった。
勿論、未来予想ゲームは続けている。
フロイドはとても気分屋で、面白いことが好きだ。変わった形や色の石や貝殻を、かわいいと言ってよく集めている。好きな遊びは海の魔女ごっこで、ジッとしているのが嫌い。
退屈そうなフロイドに「かくれんぼをしましょう」と提案して、「オレもかくれんぼしたかった!」と予想通りの返事をしたかと思ったら、すぐに飽きたと意見が変わって突然かくれんぼが鬼ごっこに変わったりすることもある。
そんなフロイドの気分屋なところが、ジェイドのやる気を何度も刺激した。
予想通りにならないことにワクワクした。次は何をするのだろうとドキドキした。
フロイドといると退屈なんて、全然感じなかった。彼は、ジェイドが隣にいることに何も言わなかった。時々「いっしょにいると、おもしろい」と笑うのが嬉しかった。

フロイドと無事にエレメンタリースクールに入ってからも、ジェイドは未来予想ゲームを続けていた。
今までの家族とは違い、先生やクラスメイトとは過ごす時間が少ない分、ゲームの難易度は上がる。それでも1日の半分を共に過ごしていれば、色々な情報が手に入るものだ。不審に思われない程度に「何かしてほしいことはありませんか」ゲームも続けた。
あまり話したこともないクラスメイトに「してほしいこと」を聞くのは、流石にどうかと思ったので、「何か困ったことはありませんか」と聞くことにした。対象は、困ったり慌てたりしている人魚だ。焦った思考でいる時、優しく声をかけられれば、それは親切に映る。多少予想を外しても、カバーがしやすいのも良かった。
言葉遣いも工夫する。ジェイドにとってゲームの対象はみな平等だから、年上であろうと同級生であろうと丁寧に話すようにした。

「また先まわり遊びのこと、考えてんの?」
ある日、教室で偶然拾ったペンを弄びながらゲームの計画を立てていると、フロイドに声をかけられた。
「ああ、フロイド」
「ジェイド、その遊びしてる時ニヤニヤしてるから、すぐわかる」
それは他の人魚たちには言われたことのないセリフだ。ジェイドはユラユラ揺れる彼の尾びれを視界に入れながら、そう思った。
「追いかけっこに誘われたのでは?」
「アイツら泳ぐの遅くて、ツマンナイ」
フロイドが苛立ちを隠さずに、ブンと尾びれを振り下ろすと細かな泡が立った。彼の運動能力についていける同級生は片手で数られるくらいしかいないので、全力で遊ぶのは難しい。それでも気分が乗っている時は楽しそうにしているので、今日は気分が乗らなかったのだろう。
「……ねえ。先のことが分かるのって、面白いの?」
「分かるというか。僕は、予想をするのが好きなんです」
「ふうん。まあ、ジェイドが楽しいならいいんだけどぉ」
ぽわり、フロイドが吐いた空気が大きな泡に変わって上っていく。それを目で見送っていると、「ジェイド」と名前を呼ばれた。
「はい」
「オレと先まわりゲームしようよ」
彼はそう言うと、両腕を上げた。両手はグッと握られている。
「どっちかに、宝物が入ってんの。どっちだと思う?」
ジェイドは驚きに目を見張った。が、それは一瞬のことで、すぐに差し出された両手を見比べる。フロイドは珍しく真面目な表情をしていた。おかげで少し緊張する。本気で相手をしてくれているのだと思うと、興奮した。
フロイドの利き手は左だ。宝物は強く握っておける利き手に入れておくのではないか。いや、彼は気分で利き手を変えてみたりもするから、それは当てはまらないかもしれない。むしろ利き手で妨害できるように、右手に握っておくのが普通だろうか。いやいや。
フロイドの癖や、これまで好物を持っていた姿を思い出しながら、ジェイドはたっぷり時間をかけてゲームを楽しんで、―――最終的に左手を指さした。
フロイドはジェイドが考えている間、じっと待っていた。
「こちらにします」
「そっちでいいの?」
神妙な声で聞かれて、ゆっくりと頷く。
「ええ、構いません」
フロイドの左手が、パッと開く。手のひらの中には、ピンクの貝殻が入っていた。
「アタリ~」
彼はそう言って笑った。ジェイドはふっと息を吐いた。自分が思っていたより余程緊張していたらしい。それから何か言わないと、と口を開こうとした時、フロイドが右手を開いた。
そこには、つやつやした丸い小石が入っていた。
「そんで、こっちもアタリ」
「え」
「どっちも、さっき校庭で拾ったんだぁ」
彼はそう言って、貝殻と石をジェイドの手の中に握らせた。そして、ニコリと微笑んだ。
「ジェイドは頭いいから、先のこと考えんのが楽しいのかもしんねーけど。オレは、今、楽しいのがいいなって思う」
「……そうですね。それがフロイドのいいところで、」
「もし両方アタリだったらって、さっき考えてた?」
片割れの彼が口を噤むのを見て、フロイドは満足げに尾びれを揺らす。
「じゃあ、オレの勝ち!そんなペンは放っておいて、外で遊ぼ」
そこで、ジェイドはようやくこのゲームが遊びの誘いであることに気がつく。
この勝負は彼が言う通り、完全にフロイドの勝ちであった。
ボーっとしてないで行くよ、ともう外に飛び出して行きそうな片割れを急いで追いかける。
ジェイドは手の中の宝物を無くさないよう、右手をグッと握った。
拾ったペンのことなんて、もうすっかり頭の中から消えてしまった。

そんな自慢の片割れに、ある時お気に入りが増えた。彼が会話の途中で機嫌よさげに「タコちゃん」と呼ぶのは、同級生のふくよかなタコの人魚のことである。
彼はよく容姿やゆっくりした行動を理由に苛められていた。言い返すこともできずに泣き出す姿が痛ましくはあったが、自発的に話しかけようと思ったことはなかった。
取り立てて予想をしなくても、彼はいつも俯いていて、教室の隅で本を読んでいるか、何か言われてグズグズ泣いているかだったから。心を鬼にしてあえて言葉にするなら、彼は実に模範的ないじめられっ子だった。ジェイドにとっては、とてもツマラなかったのだ。
そんなある日、突然(これはいつものことだったが)「面白い子がいるから、図書館で待伏せしよう」とフロイドに言われ、ジェイドは訳も分からぬまま、あれよあれよという間に図書館へと引っぱりこまれた。
本棚の陰に隠れてじっと待っていると、隣から「あ、来た」という声が上がる。
ふと視線を上げると、いじめられっ子の彼が分厚い本を抱えて入ってくるのが見えた。小さなまるい体で、たくさんある手足を使ってもずいぶん重そうな本を、やっとこさとカウンターに返却している。紫の表紙に箔押しされた紋章、あれは。
「あれ、ジェイド読んだことある?」
「まさか。冗談でしょう」
古の魔女の魔導伝書じゃないですか、あれ。ジェイドは目をパチクリさせた。

古の魔女、アースラ。俗称海の魔女は、変身薬をはじめとする魔法薬の調薬に長け、またいくつもの強力な魔法を有した大魔法士である。彼女はとても慈悲深く、様々な人魚の願いを魔法で叶えたという。
そんな彼女の知識は口伝され、本にもなっている。鮮やかな紫の表紙に魔女の立派なタコ足の紋章が金色で箔押しされた、魔導全書。全13巻。エレメンタリースクールの生徒でも覚えることが出来る簡単な呪文から、作るのに1年以上かかる最上級の魔法薬まで。魔女の知識をギュッと詰め込んだ、1冊700ページ以上ある分厚い本たちである。
学校の教科書では、その中から難易度の低い魔法薬や呪文が記されている。あの中からであるので、それはもう選ばれたごくごく少数だろう。
何しろあの厚さと重さなので、人魚の子どもでは持つのが大変なのである。

小さなタコの人魚はカウンターで司書と何やら話した後、先ほど返却した本をまた手足でやっこらさと持ち上げて帰っていった。どうやら貸出期間の延長をしに来たようだ。
あんな重い本を借りようなんて変わり者が他にいるとは思えないが、延長の際は借りている本を1回図書館に持ってくるのが規則である。
彼が去った後、フロイドはもう此処には用はないとばかりに出口に向かった。
「どぉ?あのタコちゃん、面白いでしょ」
図書館を出て家に向かう道中、2匹のウツボの人魚たちはウキウキした気持ちを共有する。
「ええ、とても興味深いですね」
「だよねぇ」
じゃあさ、と言ってフロイドが何かを投げ渡してきたので、ジェイドはとっさに受け取る。
「明日、2人で会いに行こうよ」
それは、書き損じた貝殻だった。インクが盛大に零された箇所まで、細かな字で切り傷に効く薬の煎じ方の1部が書かれている。
ジェイドは貝殻を左手に持ち替え、右手を上げてみせた。笑い声と共に、フロイドの左手がその手を打つ。
「そうこなくっちゃー」
「ふふ。楽しみです」
地上であればスキップでもしそうな軽やかさで、彼らは尾びれを動かした。
この自分の知らないところでいつの間にかウツボの兄弟に観察され、次の日に突撃された哀れなタコの人魚こそ、アズール・アーシェングロットであった。

それからなんやかんやあって、アズールと行動を共にするようになってからも、ジェイドは未来予想ゲームを楽しんでいた。予想を引っ掻き回すように行動するフロイドとは違うが、一見大人しそうなアズールもどうして予想通りに動かない輩であった。
何しろ出会ったころとは違い、努力という武器をしっかり身につけたアズールは、1日の成長度合いが他の人魚とは違う。ユニーク魔法の契約に役立てるため新しい知識を身につけ、苦手分野を捻じ伏せていく様子は、ジェイドの好奇心を刺激した。最近では肉体改造にも目覚めたのか、カロリーだの運動量だのと、さらに忙しそうに過ごしている。
あと、これは本人に言ってしまうとツマラないので声に出したことはないが、アズールは目的に向かって突っ走るタイプであるので、時々努力の方向がこんがらがって大変面白いのである。
「彼女の誕生日に送るキレイな髪飾りを用意してほしい」という願いで契約をしてきた男に、なぜか自作の髪飾りを渡そうとしているのにはフロイドともに「なぜ!?」と言ったものだ。アズール曰く「彼女に似合う髪飾りでなくては、納得してもらえないでしょう。そんなものに高い金を払うぐらいなら、作った方がはやいです」という理由だったのだが。
結局、人の恋人に手作りの(アズールはファッション雑誌を読み漁り、ジェイドとフロイドも材料集めに奔走し、何処に出しても恥ずかしくない逸品に仕上げた)髪飾りを贈るというよく分からない状況になったのだが、アズールは対価をしっかり頂いてご機嫌だった。
まあ、そんな話は置いておいて。

そんな風に、どんどん突き進んでいくアズールの先読みは難しく、それも含めてとても楽しい。ジェイドが初めて「何か困ったことはありませんか」と聞いたときも、「ありませんよ。困ったことがあれば、自分で何とかします」と言い、さらに「むしろ僕で遊ぶほど暇で困っているのはジェイドの方でしょう」と突き放された。
未来予想ゲームについては、アズールもフロイドと同じ意見らしく、「ジェイドが楽しければいいんじゃないですか」という具合だ。
2人の未来予想がなかなかうまくいかないので、ジェイドのターゲットは次第に他の生徒へ移っていった。とにかく、経験を積めばよいのではと考えたのだ。
「何か困ったことはありませんか」と聞いて回り、答えと同時に解決して見せる。傍から見ればいいことをしているように見えたし、ジェイド自身も悪いことをしているわけではなかった。
しかし、相手もある程度考えることが出来る年齢になってくると、ジェイドの行動はただ親切に助けてくれる人では済まされなくなるようだ。声をかけられた人魚たちは、少しだけある懸念を抱くようになる。それは「困りごとを作っているのは、本当はジェイドなのでは?」という不確かな思いだった。

海藻当番であったジェイドは、放課後裏庭の海藻たちに肥料になる魔法薬を与えていた。病気にかかっていないかと葉っぱの様子を確かめ、岩から剥がれてしまったものを回収する。この黙々とできる作業をジェイドは気に入っていて、それは人気のないその当番にも真っ先に立候補したぐらいだ。
その日は3人とも当番活動の日で、フロイドは体育館に清掃を、アズールは図書室に本の整理をしに一旦教室で別れた。
切りのいいところまで作業を終えて、ぐっと背中をのばす。誰も確認はしないが、3人で帰るためにもう一度教室に集合することは決まっていた。そろそろ待ち合わせ時間だろう。バケツや回収した海藻を持って、ジェイドは倉庫へと足を向けた。
その声が耳に届いたのは、倉庫に道具を直し、海藻をゴミ置き場に持っていく途中だった。
アズールの名前が呼ばれた気がして、ジェイドは物陰でそっと聞き耳を立てる。いつかの契約者だろうか、アズールは周りに誤解されやすい性格をしているので、陰口は時々あることだった。歩きながら話しているのか、廊下の向こうから声が近づいて来る。
ところが、よくよく聞いてみると、それはどうやら自分の話のようだった。
曰く、ジェイドは「自分の得のために人を故意に困らせている」らしい。そんな話だった。
「タコもそうだけど、ウツボも薄情者だろ」
「俺の友達がノートを無くして困ってたら、ウツボの片方が持ってたんだってよ」
「そうなの?僕は食べたかった食堂のランチを交換してもらえたけど」
「でもあれ、お前の選んだランチのが人気あるんだぜ」
「自分が得になるように、わざと交換させたんじゃねえの」
「困ってませんかーってな」
「つーか、普通に気持ち悪くね。頭の中覗いてんのかよって」
「うええ、怖いこと言うなよ。ただでさえあの兄弟長くて、おっかないんだから」
「なんかニヤニヤしてるしな」
「あのタコ野郎の仲間だから、しょうがねえな」
しっかり聞けたのはそこまでだった。どうやら先にある角を曲がったようだ。
ジェイドはそっと物陰から出る。そして、ゆっくり教室に向かって泳ぎ出した。

「お前、なんて顔してるんだ」
廊下を泳いできたアズールはそう言って、教室の扉の前でぼうっとしていたジェイドの手を引いた。教室の中に入り、しっかり鍵をかける。おまじないの様に人避けの呪文を呟いて、彼はジェイドに向き合った。
「何かあったんですか?」
「……いいえ、なにも」
殴られたとか、面と向かって嫌味を言われたわけではない。ちょっと、盗み聞きをしただけだ。その内容だって、いつかは言われるのではと薄々気付いていたもので。
―――後から思えば、ジェイドはその時分かりにくく傷ついていた。心臓の端っこを小さな爪で引っかかれたような気持ちというのだろうか。
2人の間に沈黙が落ちて、アズールは困った顔をした。彼にとってジェイドは「頼りになるスカし屋」だったので、気落ちした表情をしていることにショックを受けたのだ。
アズールはそれでも何とか頭を動かし、ふと何かを思い出した顔をして口を開いた。
「ジェイド、何か困ったことはありませんか」
それは、いつかジェイドがアズールにかけた言葉だった。未来予想ゲームの1つの台詞だ。
運悪く、先ほどの会話を呼び覚ますような問いかけであった。
「……アズール、あの」
「今日は、僕が予想することにします」
じっかりと目を見て言われて、ジェイドは戸惑いを隠すように口を噤む。
「さあ、僕はあなたの次の行動を考えついていますよ」
彼は「困ったことは?」と言って、腕を広げてみせた。彼は始めたゲームをやめる気はないようだ。
「僕は、慰めてほしいわけじゃありません」
「笑わせないでくださいよ。こっちだって、慰める気はない」
「でも、」
「ジェイドは、慰めてほしいんですか?」
小馬鹿にしたように笑われて、流石にカチンときた。こちらは気落ちしているのだから、ちょっと水の流れを読んでほしい。ああ、もう。困りごと言えをと言うのなら、早く帰ってしまいたいと答えてしまおうか。
「知ってます?いじめられている時にかけられる慰めほど、惨めなものはないんですよ。「大丈夫だよ」とか、「あなたは悪くない」とか。コッチは大丈夫じゃないし、悪くないなら何がいけないんだ、言えよ!って、気持ちになります」
あくまで僕はですけど。アズールはそう言って、広げた腕を勢いよく動かした。少し軟らかい手が、ジェイドの腕を握って元の様に広げる。二人で大手を広げる形になった。
「ジェイドは腕が長いですね」
「それは、まあ。アズールよりは」
「まあ、それはいいです。でも、どれだけ広げてもこのくらいですよ、腕なんて」
彼は、そっと青緑色の腕を撫でる。
「どれだけ頑張っても、努力しても。未来を予想しても。ジェイドが咄嗟に止めたり、触れたり、助けたりできるのは、この腕が伸びる範囲までです」
「……」
「あなたは最適解こそが自分を救うと思ってますよね。それは、正解です。自分は腕の範囲に入ってますから。……でも、他人は違うだろ」
アズールは少し考えて、「兄弟であっても、範囲から逸れれば他人です」と付け足す。
その言葉に、ジェイドは過去のフロイドを思い出した。
「どうでもいい他人に構っていては、身を滅ぼしますよ」
両腕を下ろして、彼は笑う。
「ジェイドは、僕と比べれば何でもできます。力も強いし、はやく泳げるし、要領もいい。その割に、満足していない。もっと出来るはずだと、もっとやれることがあるってあれもこれもと考えて、それで涼しい顔をして、やっぱりあれもこれも出来ちゃうんですよね」
「そんなことは、」
「ジェイドはいつから、自分のために欲張らなくなったんですか」
一瞬、ジェイドは言われた意味が分からなかった。自分のために、欲張る、とは?
「未来を予想するっていうことが、1手先、2手先を読むって言うことだとして。それは相手のことを、時間をかけ脳を動かして、考えるってことです。腕の外のヤツらにそうやって時間や脳を使ってやって、ジェイドは何が得られるんですか?」
「それは、……予想する経験や機会ですかね」
「割に合いませんよ、そんなの」
赤字も赤字だ、とアズールは息巻く。
「そもそもゲームなんてものは、提供する側に利益があるのが普通なんです。それを、あなたはタダ同然で、貴重な時間や脳みそを使って。ああ、勿体ない」
「もったいない、ですか」
「勿体ない。しょうがないから、僕がその勿体ないものを僕のために使ってあげましょうか」
彼はふんぞり返り、青い瞳が爛々と輝かせてそう言った。
「ジェイドは未来予想ゲームをしたくなったら、今まで通り続けてください。ただし、対象は僕です。あなたが1手先を読むときに、僕は2手先を読んで行動します。3手先なら、僕は4手先です。気付いたときには、あなたは僕の思い通りに動いて、僕に多大な利益を運んでいることになるでしょう。僕は簡単に満足しませんからね。そのかわり、僕はあなたの望みをなんでも叶えてあげます!」
8本の足が、タタタンと海底を叩く。言っていることは自分勝手極まりないのだが、彼の発する言葉には、まるで一人舞台に立っている役者の台詞のように、何かをぐっと惹きつける力があった。
「……なんてね。いいですか、ジェイド。ゲームを楽しむのもいいですが、どうせ時間を使うのなら、もっと自分がしたいことに使うべきだ」
「自分の、したいこと?」
「欲張ることは悪くないと僕に勝手に教えたのは、あなた達なんですからね」
では、帰りますか。と言いたいことを言うだけ言って、アズールは教室から出て行った。
廊下からフロイドの不機嫌な声がする。
ジェイドは、彼らに向けて両腕をそっと伸ばしてみた。
腕の伸びる範囲は、このくらい。それは自分が思うよりずっと狭かった。
「腕なんか伸ばしてないで、はやく帰りますよ!」
こちらに目を向けることなく発せられたアズールの声で、すっかり忘れていたゲームの勝敗がつく。ジェイドはなんだか可笑しくなって、身体を揺らして笑った。