シナハノリウョギンニ

! 男監督生がいます

 

モストロ・ラウンジのVIPルームに4人の男子生徒が集っていた。
1人はモストロ・ラウンジのオーナーである、アズール・アーシェングロットである。
彼は珍しく執務机越しではなく、ソファーセットの上座に座っていた。
そして、その横にはオクタヴィネル寮の副寮長であり、彼の右腕であるジェイド・リーチがマナー本のお手本の様に腰かけている。ちなみに、ローテーブルで飲まれるのを待っている紅茶は彼が入れたものである。
さらに、その正面にはオーナーの左腕であり、ジェイドの片割れでもあるフロイド・リーチが見るからにダルいといった様子で座っていた。その姿勢こそだらしないが、何かあればすぐにでも動けるぞ、という圧が感じられる。
そして、その横で1人の生徒が小さく小さくなっていた。
「折角の休日にお呼び立てしてしまって、申し訳ありません。監督生さん」
ジェイドの言葉に、彼はビクリと肩を揺らして、「いえ」だの「そんな」だのともごもご口を動かした。さながら、蛇に睨まれた蛙。いや、ウツボに睨まれた小エビである。
「何故呼ばれたか。賢いあなたなら、理解されているとは思うのですが」
「はい。ええ。理解しております」
「おやおや、そんなに怯えないでください。僕たちはお話を聞きたいだけ、ですよ」
そう言われても、アンタたちが3人いるだけでもう雰囲気が怖いんっスよ。と監督生は思った。が、なにせ賢い頭がそれを口にしてはいけないと信号を送るので、しっかりと口を噤んだ。
ジェイドが「アズール」と、オーナーの名前を呼ぶ。
アズールと呼ばれた男子生徒が、小さな紙切れを取り出した。
その紙切れは、前にいた世界でも何度か見たことがあり、最近特に見慣れたものである。
「これは、昨日貴方が使用していた会計票です。間違いありませんね」
「はい」
この世界に来てからというもの、監督生は生活苦に悩んでいた。お金がないのだ。
そうして、食堂でうんうんと手持ちの小銭を数えながら頭を捻っていたところにアルバイトを紹介してくれたのは、サバナクロー寮のラギー・ブッチである。すぐさまアズールへのお伺いがなされ、ツナ缶代およびちょっとしたお小遣いが欲しい少年は、その日の内に新人アルバイターとしてモストロ・ラウンジのホールに立っていた。推薦人である彼の手際のよさたるや、流石としか言えない。
そんなこんなで、彼は定期的にアルバイトとして雇われていて、昨日もホールに立っていた。もちろんサボることなく、マドルのためにとキリキリと働いていた。
「この会計票の仕組みも、もうご理解されていますよね」
「注文を書き込んでペンを紙から離すと、3秒後その文字が認識されて、厨房のタブレットに届くシステムですよね。「取った注文は素早く、出来るだけキレイな字で書け」と、フロイド先輩に叩き込まれました」
「叩き込みましたぁ。ちゃんと覚えてて、えらいじゃ~ん」
長い足を持て余すようにブラブラと動かしていたフロイドが、ヘラリと笑う。
教育係として彼が目の前に現れた時は、死を覚悟したものだ。と監督生はそう遠くもない初日を思い出す。「よろしくね、小エビちゃん」と笑顔とともに放たれた彼の言葉は、「足手まといになんじゃねぇぞ」と正しく変換されて、監督生の耳に届いた。1ヶ月も経っていないのに、すでになつかしい。
監督生とフロイドの返事を聞いて、アズールは頷いた。そして、手にしていた会計票をテーブルの真ん中に置き、手袋に包まれた人差し指でソレを指した。
「では、本題に入りましょう。ここに書かれている3つの単語について、です」
「はい」
「しつこいようですが。あなたが書いた字、ですよね?」
「間違いなく」
「そうですか」
アズールは、少し思案するように口を噤み、そこに書かれている言葉たちを目でなぞった。
“へんなひと?”
“海水”
“SOS”
会計票には、その3つの言葉が書きなぐられていた。

「この会計票が書き込まれた時間、僕はこの部屋である方の相談を受けていて、ジェイドは扉の前で待機をしていました。そうですね?」
その問いに、ジェイドが「はい」と頷く。
「そして、このSOSの書き込みの後、不審に思ったフロイドがそちらに向かいました。あってますか?」
その問いに、フロイドが「そうだよ~」と頷いた。
「最初はイタズラかなって思ったんだけど、小エビちゃんってそんなことするタイプじゃねーじゃん。なんかあったのかなって、厨房からホールに行った」
「それで?」
「すぐに小エビちゃんとこまで歩いてって、「何してんの」って話しかけた」
その言葉に、監督生は肯定の意味で首を縦に振った。
「その時、フロイドから見て、彼はどういう状況でしたか」
「どうって言われても」
アズールに問われて、フロイドは首をひねる。
「……誰も座ってない席に向かって、小エビちゃんが接客してた?」
フロイドの言葉に、今度は監督生が首を捻った。
「誰も、いなかった?」
「いなかったよ。オレがホールに出た時から」
「え? 本当ですか」
「嘘言ってどうすんの」
ゴホン。
アズールのわざとらしい咳払いが、その場に響く。
「監督生さん。僕たちの認識では、昨日貴方は誰もいない席に向かって接客をしている時間があった、ということになっているんです。ただ、サボりや職務放棄と断定するには不可解な状況です。ですから、その時間の説明と、この会計票の説明をお願いします」
わざわざこちらまで出向いていただいたのは、それが聞きたかったからです。
そう言って、アズールは姿勢を正した。
「昨日、一体何があったんですか」
その問いかけに、監督生は疑問を残したままの表情で答えた。
「正直に言うと、ところどころ記憶があやふやなところがあるんですけど」
そこまで口にして視線をアズールに向ける。彼が小さく頷くのを目にして、彼は言葉を続けた。

扉の前で佇んでいるその紳士を見た時、ボクは「まずい」と思いました。
というのも、もちろん、「お客様を待たせるべからず」という諸先輩方のお言葉が、脳にしっかりと貼りついているからでして。
え? あ、はい。すみません。出来る限り、簡潔に話します。
ええと、とにかく。ボクが気付いたときには、すでにモストロ・ラウンジの入り口にお客様が立っていたんですよ。にも拘わらず、先輩方はなぜか誰も席に通す素振りがなかったので、これはまずいぞと思いました。
それですぐに、その男の方のところに飛んでいって、「いらっしゃいませ」と声を掛けました。
近づいて分かったことですが、その男の人は、なんというか紳士を絵にかいたような恰好でした。
山高帽にモノクル、立派な髭に仕立てのよさそうなダブルスーツ。それから、アズール先輩が持っているような杖も。持ち手と石突きが金色でした。
最初は、この学園にこんな先生いたかな? と思ったんです。なんというか、その時はこの人は先生なんだ、って思いこんでいて。ボクはまだこの学園の先生の顔を全て覚えているわけではないので、たぶんそうだろう、と。
ただ、なんというか。この学園の先生たちって変わった人……、あ、いやいや。個性の強い方が多いじゃないですか。学園長からして、あんなですし。
だからかな。すぐに、ちょっとおかしいな、という考えになりました。
その紳士っぽい男は、格好こそ紳士なんですが、個性がないというか。特徴がないっていうんですか、そんな感じで。
今頑張って思い出そうとしても、顔が分からないというか。どこにでもいるかのような平凡な顔、いや平均的な顔? もやもや、ぼんやりとしてるんですよね。
身長もそんなに高くなくて、痩せても太ってもいませんでした。
中肉中背、どこにでもいるような平凡な顔。そんな人でした。
だから、学園の先生ではないんじゃないか、と思いました。
それで、先生じゃないなら、外部からのお客様ということになりますよね。
でも、授業のある平日に来る外部のお客様って、大体アズール先輩との取引相手ですし、それならVIPルームへの直通じゃないですか。訪問時間も、ジェイド先輩がきっちり把握しているはずですし。
だから、あれ?と。また、そこで疑問に思ったんです。
でも、ボクは頭を使うのが苦手なので。深く考えずに、その紳士に正直に聞きました。
「今日は、お食事のご利用ですか?」
紳士は少し考えるように目を細めて、それから「そうだね、そうしようか」と言いました。
そうだね、はボクの方を向いて。そうしようか、は下を向いて言いました。
下に何かあるのか、と思って視線を下げましたが、そこには銀色のトランクがあるだけでした。あの、札束を入れるような。えっと、ジュラシック、じゃなくて。ああ、そうです。ジュラルミンケース! それです。
ずいぶん立派なトランクだな、と思いました。鍵が3つ付いていましたし。
それでつい、ジロジロと見てしまって、その紳士に「気になるかい?」と笑われてしまいまして。そこで自分の仕事のことを思いだしました。
あ、怒らないでください。
無礼な態度を取ったことは、すぐに謝罪しました。
それから、いつまでもドアの前にお客様を立たせてはいられないので、開いている席を探してフロアに目を向けました。それと同時に、紳士が「水槽が近くで見える席はあるかね」と言ったんです。
店内は混んでいましたけど、ちょうど大水槽の近くの2人掛けの席が空いていたので、そちらに案内することにしました。
こう、ジュラルミンケースを持っているぐらいだから、お金持ちだろう。お金持ちなら、たくさん注文をしてくれるだろうし、ちょっとしたお願いぐらいは聞いておいた方がいいかなって。
でもボクにはやっぱり、彼が変な人に思えたので、席に案内しながら会計票に”へんなひと?”って書きました。迷惑になりそうな客の警戒報告レベル1の合図ですよね。ヤバイ奴と書くほどではなかったので、見て思った通りの言葉で”へんなひと”って書きました。
ボクだけでは判断できなくて、ハテナもつけちゃいましたけど。
席に案内すると、紳士は自分が座る前にジュラルミンケースを大事そうに、そうっとテーブルに置きました。そういえば、席に行くまでの間もしっかり手を添えて持っていましたね。
それから紳士は、目の前の水槽を見て「ほう」と言いながら、ソファーに腰を落ち着けました。
ボクはすかさずメニューを出して、「注文がお決まりになる頃、お伺いをいたします」とマニュアル通りのセリフを吐きました。
ボクとしては、ここで一旦フロイド先輩に報告に行こうと思ったんです。なにせ、変なお客様だったので。
だけど、一礼をして下がろうとした時に、紳士が「注文はもう決まっているんだが」と言ったんです。というわけで、フロイド先輩に報告しよう作戦は失敗しました。
「では、ご注文をお伺いします」
ボクは笑顔を崩さないように、ペンと会計票を構えました。
「水をくれ」
紳士はそう言いました。
ところで、ボクの地元では、ほとんどの飲食店で水がタダで飲めたんですよ。こちらに来てから水が有料だって聞いて、目ん玉飛び出るくらい驚きました。いやあ、水がタダだなんて、すごく贅沢だったんですね!
……すみません。睨まないでください。
つ、続けます。
言っちゃなんですけど、この学園の生徒でわざわざモストロ・ラウンジで水を頼もうなんてヤツいないですよ。売店の2倍の料金なんで。
それならスペシャルドリンクを頼んだ方が、断然お得ですもんね。ポイントもたまるし、喉も潤うし。
だから、水と言われて少し戸惑いました。それでも注文は注文ですから、ボクは会計票にペンで水と書きました。
「水、ですね」
「ああ。出来れば、海水が良いのだけれどね」
紳士は、ハハッとおかしそうに笑いました。ボクには、何がおかしかったのか分かりませんでした。
ただ、注文を聞いて書き取るのに慣れてしまった右手が、水の前に”海”と素早く書き入れました。
これが2番目の“海水”の文字ですね。
書いた後、お前は魚かよって内心ツッコんでしまったんですけど。
人間ならば、海水なんて間違っても頼まないですよ。海難事故にあって、何日も海の上に放り出されても飲まないです。そんなのイコール死ですからね。
人魚は飲むんですか? そうですよね。海の中じゃないんだから。
ただ、そんなボクの心のツッコミを読んだかのように、紳士が言いました。
「魚は良い。ここにいる魚たちは、皆、とても素晴らしいね」
その視線が水槽に向いていたので、大水槽を泳いでいる魚たちを見て感動したんでしょう。ボクは「はい。とてもキレイですよね」と答えました。
すると紳士はニコリと笑って、「キミも魚が好きかね」と聞きました。
目の前をキレイな色の魚が通り過ぎたのを見て、ボクは「好きです」と言ったんだと思います。魚の種類なんかは分からないですけど、水の中をスイスイ泳ぐ姿は見てて気持ちよさそうだなと思うので。好きか嫌いなら、好きだなって。
紳士はボクの返事に満足したように、大きく頷きました。そして、「エクセレント」と言いました。
「お客様も、大変魚がお好きのようで」
「勿論だとも」
「では、このモストロ・ラウンジの魚たちは、お気に召しましたでしょうか」
「ああ、とても良い状態だよ。彼らはどれも元気で、活きがいい」
「ありがとうございます」
そうやって雑談を交わし、お客様のご機嫌取りを欠かしませんでしたとも。
そして、ここでボクに再度報告チャレンジの機会が巡ってきました。これを逃す手はない、そう思って、一歩足を引き「どうぞ、おくつろぎください」と礼をして厨房へ足を向けた。までは、よかったのですが、
「ところで、キミは」
そんな声で、ボクの足は回れ右を余儀なくされました。またもや、チャレンジ失敗です。
もう心の中ではしくしく泣きながら、顔には笑顔で、「どうされましたか」と振り向きました。
「魚を飼ったことはあるかな?」
その質問に、ボクは思い出しました。昔、一度だけ金魚を飼ったことがあるんです。
赤いデメキンでした。
鰭がひらひらしていて、とてもかわいかったです。ボクは毎日話しかけて、名前も付けて、水も定期的に換えて。
でも、ある朝目を覚ましたら、モミジは死んでいました。あ、モミジは金魚の名前です。寒くなると赤くなる葉っぱに色が似ていて、その木の名前をつけました。
すぐに、原因を調べてみました。餌のやりすぎだったのか、水質が合わなかったのか、もしかしたら酸欠だったのかもしれません。
きっと苦しい思いをしたんだと思います。
ボクは凄く悲しくて、それ以来何かを飼うことをやめました。意思疎通の出来ない何かの命の糸を、ボクが握ってしまうことが怖いと思ってしまったので。
……すみません。関係のない話でしたね。
ボクは紳士の言葉に頷きました。それから、でももう飼わないと決めている、ということも。この口、結構思っていることがスルッと出て行っちゃう口なんですよね。
紳士は「そうか、」と残念そうな声を出しましたが、スイッと目を細めて憐れんでくれているようでした。
「それなら仕方がないか。まあ、しかし、キミになら見せてあげようと思ってね」
「見せる、ですか」
彼は頷いて、ジュラルミンケースを撫でました。その指には蒼い石のついた銀色の指輪をしていました。
「この中身を、ね」
「ずいぶん、大切なものが入っているように見えますが」
「そうだよ」
その手が杖に伸びたかと思うと、トントントンと金の石突きが3回床を打ちました。
次の瞬間、ジュラルミンケースについていた錠がするりと抜け落ちたので、それは開錠する魔法だったのだと思います。
「見たまえ」
彼がゆっくりその蓋を持ち上げました。
促されて、ボクは中をおそるおそる覗きました。
だって、金の延べ棒とかお札の束とか入っていると思ったんです。おう、お前、見たな? 指詰めろや、とか言われたら怖いじゃないですか。
残念で、さらに喜ばしいことに、金の延べ棒もお金も入っていませんでしたけど。
中には黒のビロードの生地が敷き詰められていて、柔らかに何かを守っていました。
それは、丸い水晶玉のようなものでした。ここら辺から記憶がおぼろげなんですが、大きさはコブシ大くらいだったかな。そんなに大きくなかったです。
赤、青、黄。
最初はその3色のガラス球が、並べられているな、と思いました。
マジガルペンについている魔法石のようにキラキラとフロアの照明を反射していたので、ボクは素直に「キレイだな」と声にしました。
「これは、魔法石ですか?」
「いやいや、そんな石ころと一緒にしないでくれ。よく見てごらん」
紳士は少し気分を害したようでした。
ヤバイ、機嫌を損ねてしまう。そう思って、慌ててよくよく赤いガラス球を覗き込みました。

目と目が合いました。

小さな目と目があったんです。その瞳は綺麗な赤色でした。
パクパクと桜色の唇が動いていて、小さな手のひらがガラス球に押しつけられていました。
その下半身は、金魚でした。赤いひらひらした尾鰭が見えたんです。
そして、ボクはそのガラス球の赤色が、何だったのかを知りました。
隣のガラス玉では、青い鱗が光を反射していました。豊かな長い髪の毛は薄い青色でした。
その隣では、黄色に黒い筋が入った模様の魚体が、丸まっていました。それはコチラをみて威嚇するかのように眉をつり上げて、白い歯をむき出していて。
……ガラス球の中にいたのは、小さな人魚たちでした。

その背徳的な光景に、ボクは声も出せませんでした。
正直、初めてジェイド先輩とフロイド先輩を見た時より驚きました。
「素晴らしいだろう」
なのに、ガラス玉の持ち主は、自慢げにそう言ってソレを撫でるのです。
ボクは気持ちが悪くなってしまって、震える手を後ろに回して、会計票にペンを走らせました。
“SOS”はその時のモノです。
「飼っていた金魚は、こんな赤色じゃなかったかな?」
ソイツは、赤いガラス球を指さして言いました。
泣きたくなりました。モミジにそっくりだったから。
水槽を覗き込んだ時、こちらを見つめていたその目が、そっくりだったから。
「キミになら、特別に売ってあげてもいいよ」
じわりと甘い、毒のような声が、耳から脳に届きました。
また、泣きたくなりました。ガラス球には、値札が張ってあったからです。
上半身の覚束ないモミジが口を開けて、ボクに何か言おうとしていて。
でも、その音は小さな鈴がなるように聞こえづらくて。
ボクはよく聞こうと、耳を近づけました。
そうしたらモミジが嬉しそうに口を開いて、笑顔のまま、やけにはっきりした声で言ったんです。

「 オ マ エ ノ セ イ ダ ヨ 」

その時、後ろからフロイド先輩の「何してんの」という声がしました。
それまで忘れていたように聞こえなかった、ザワザワした店内のざわめきが耳に入ってきて、頭がクラクラしたのを覚えています。
「サボってんじゃねーよ」と頭を掴まれて、その不機嫌を固めたような声に、やっと自分がモストロ・ラウンジのフロアにいることに気が付きました。
ハッと、目の前の席に目をやると、そこには誰もいませんでした。
あの紳士も、あのジュラルミンケースも、モミジも。
夢でも見ていたのかと思いました。
でも、手元の会計票を見て。震えた字で書かれた“SOS”を見て。
夢ではなかったんじゃないかと、そう思ってしまいました。

ふぅ、と最初に息を吐いたのはアズールだった。
「そうですか、分かりました。話して頂き、ありがとうございます」
そう言って、綺麗に組んでいた足を下ろす。
そして、彼は隣に座っているジェイドに冷えてしまった紅茶の入れ直しを命じた。ジェイドはその声を聞いて弾かれたように立ち上がり、返事もそこそこにティーポットを持って部屋を出て行く。
「監督生さん」
「はい」
「この話は、僕たち以外の方にもしましたか」
アズールの静かな声が、VIPルームの床に落ちる。
「いえ、今初めて話しました」
「では、ここだけの話にしてください。出来れば、貴方ももう忘れた方がいいです。それが出来るようでしたら、昨日の分の給料は色をつけてお支払いします。もちろんプラスの方にです」
監督生はその言葉に、何度も頷いた。出来るなら忘れたいのだ。思い返せば、なんとも気味の悪い話である。
アズールはその了承の仕草に、悲し気な目で微笑んだ。そして、「フロイド」と監督生の隣の席に向けて、強く呼びかけた。彼は話の途中から、というかだいぶ序盤から寝息を立てていた。
「んあ? なぁに?」
「寝こけてないで、監督生さんを寮までお送りしてください」
「んー、小エビちゃんの話、やっと終わったの?」
「ええ、終わりました」と言い、アズールがすくっと立ち上がる。つられるように監督生が立ち上がると、フロイドはそれを見て、徐にソファーの背もたれと仲良くなっていた体を起こした。う~んと伸びをして、「じゃあ、いこっかぁ」と頭を天井に近づけた。隣に立つたび思うが、彼らは本当にデカい。
アズールはスタスタと執務机の後ろに回り、引き出しを開けたようだった。そして、白い布袋を取り出し、コチラに向かって投げ渡した。
フロイドは無言でソレを受け取る。
「ついでに店の入り口と寮の入り口に撒いてきてください。厄払いです」
「はぁ~い」
オーナーの言葉に緩い返事を返した彼は、「ほら、早く。行くよ~」と言ってVIPルームの扉から出て行った。監督生はそれを追いながら、アズールに向かって「失礼します」と声をかける。
彼は監督生の書いた会計票を手に取りながら、もう片方の手で何かを投げた。
慌てて両手で受け取ると、それはちょっとお高めのツナ缶だった。
「前払いです。きっと必要になりますよ」
彼はそう言って手を振った。

「ジェイドはさぁ」
モストロ・ラウンジの入り口で薄桃色の粉を適当に撒きながら、フロイドが口を開いた。
手伝えと言われたので、監督生も同じように粉を撒いている。
「ああいう話、嫌いだから。もうしないでね」
あらかた巻き終わったのか、彼は手を擦るように叩いて、ついてしまった粉を落とす。
どことなく固い声に、監督生は「すみません」と口にした。どうすればいいのか分からない時、反射的に謝ってしまうのは、癖のようなものだった。
「謝ってほしいわけじゃねえけど。でも、アズールも言ってたけどさ、早く忘れた方がいいよ」
監督生がその顔を見上げる。自分を見下ろしてくる色違いの目が、悲しい色をしているように思えた。
「そうします」
「うん。いいこ、いいこ」
その大きな手が頭を撫でて、すぐに離れる。
そうだ、彼らは人魚なのだ。
監督生はそう、やっと気づいた。鈍すぎると言われても仕方のないほどの遅さだった。
すっかり人の形をしているから、忘れかけていた。いや、自分のことでいっぱいいっぱいだったのかもしれなかった。
彼らに話すべきではなかったのかもしれない。監督生はこれも遅れながら後悔した。
でも、話しても良かったとも思っていた。
だって、アイツの言っていた魚が、水槽の中の魚のことだったとは限らないのだ。
きっと彼らは、話の途中でそれに気づいていた。だからアズールは、自分にお礼をいったのだろう。
監督生はいつもはあまり使わない頭を動かしながら、前を歩く大きな背中を追った。
「あの、ところでこれ、何の粉なんですか」
「これ? サンゴの粉」
フロイドは袋の中から粉をつかみ取り、土俵入りする力士が塩をまく様に、宙に放った。
細かな粉が、キラリキラリと光って空中に舞い、落ちていく。
そこだけ切り取れば、マリンスノウにも似た、とてもキレイな光景だった。
その後は、二人して粉を振り撒きながらオンボロ寮への道を歩いた。
粉が顔にかかったり、口に入って咳き込んだり、最後には相手に投げつけ合いながら。
寮に帰り着いたときには、監督生は頭の天辺から足の先までサンゴの粉まみれだった。
ちょっと積もっていたぐらいだ。
フロイドはゲラゲラ笑いながらその姿をスマホに収めて、鼻歌を歌いながら帰っていった。

実は、先輩たちには話していないことがある。
あの後、制服の内ポケットに手紙が入っているのを見つけた。
「キミがその気になれば、あの魚はいつでも購入できますよ」
そう書かれていた。
あれは、モミジだったんだろうか。いや、モミジは元の世界で、もう死んでしまったのだ。
ボクは涙を流しながら、家の庭の隅っこに、ちゃんとお墓も作った。
そう、モミジのはずがない。だって、モミジにはあんな歪な人間の上半身なんてなかった。
ただ、一瞬でも。
あの赤い人魚は自分のものだ。買ってみたい、飼ってみたい! と思ってしまった自分が何より恐ろしいと、監督生は自分の肩を抱いた。
目を閉じると、キラキラした赤いガラス玉が瞼の裏に映る。
人目を気にせず、大声で泣き喚きたくなった。
悲しいのか、怖いのかは、自分のことのはずなのに分からなかった。
今夜はグリムを抱きしめて寝よう。
貰ったツナ缶をしっかり握りしめて、監督生は自室の扉を開けた