クリームソーダ

 

クリームソーダは余所行きの飲み物だ。
シュワリとはじける炭酸のジュースの上に、まん丸なバニラアイスが浮かんでいて、缶詰の中で赤く染まったさくらんぼがすまし顔で寄り添っている。他では見たことのない柄の長いスプーンと、赤と白のしましまのストローが刺さっている。
記憶の中のクリームソーダは決まってメロン色をしている。めかしこんだ母さんが俺を連れて外出する時、向かう先は決まって2駅先のファミレスだった。
「いい?余計なことはしないで、ニコニコ笑ってればいいの。行儀よくしなさいよ」
つんと赤い唇を尖らせて、母さんはいつも同じことを言った。返事も聞かずに歩き出す足元で、母さんの赤いエナメルのハイヒールがツルツル光る。りんご飴に似ているすぐに壊れそうな華奢な靴が、床を蹴ってコツコツ音を立てた。
店の中で待っているのは毎回紺かグレーのスーツを着た男の人で、母さんは笑顔でその人に近づいて必ず対面に腰を下ろす。
1人1人の顔を覚えてなどいないが、前も会ったことがある人だったり、ない人だったりした。
眼鏡をかけていたり、腕時計をしていたり、指輪をしていたりもした。
ただ、どの男も母さんのことを下の名前で呼んで、俺を見て「今日は子連れか」とでも言いたそうな顔をするのは変わらない。どんな顔をされても、男と目があえば俺はニコリと笑った。初めましてかどうかは分からないから、「こんにちは」と笑って挨拶をした。行儀よくと言われていたからだ。
母さんは言いつけを守らないと癇癪を起こす女で、人前では騒がないけれど家に帰れば暴れ出すことがあった。そして散々家の中をぐしゃぐしゃにした後は、一頻り落ち込む。我に返るのはいつも突然で、記憶が抜けているのか「健十。こんなに散らかして、ダメじゃない」と叱られる。俺はその間、部屋の隅でずっとぬいぐるみを抱えて息を殺していた。
癇癪は母さんに取りついた怪物だった。「どうしてわたしが」「わたしばっかり」と喚いているうちは刺激したらいけない。怪物に見つからないうちは安全で、運悪く目をつけられると身に覚えのないことまで叱責された。
醜く歪んだ怪物の顔を見ないですむ方法は、俺がキチンと母さんの言うことを守ることだった。
大人たちは決まってコーヒーを頼む。
「コーヒーを2杯」
ブレンドでも、アメリカンでも、匂いは一緒だった。豆が焼けて、焦げた匂い。ろくに味わいもしない白いカップに入った黒い液体だ。
注文の仕方も知らない俺の前には、いつもクリームソーダが届けられた。彼女たちが飲むコーヒーはその店のメニューの中で一番安く、クリームソーダは一番高い飲み物の名前だった。その値段分が、子どもである俺への配慮だったのかもしれない。飲み終わるのにかかる時間が一番長いから、という理由だったのかもしれない。
とにかく運ばれてきたクリームソーダを見て喜んで、男の人に「ありがとうございます」というのが俺の役割だった。長い、使いづらいスプーンでバニラアイスを少し掬って口に入れ、「おいしい」と笑えば、母さんもスーツの男たちも皆満足げにしていた。
「○○さん、ありがとうございます。この子、クリームソーダが大好きで」
母さんが鼻にかかった声で喋り出すのを聞きながら、俺はバニラアイスを沈めないよう慎重に掬って、ゆっくりと口に運んだ。
初めて食べた時は、アイスを沈めて遊んだせいで、帰ってから母さんにひどく叱られた。
「今度あんな行儀の悪い食べ方したら、許さないわよ」
母さんに似た怪物がキーキーと高い声で喚く。俺はごめんなさいと繰り返し、怪物はイラついた気持ちを小さなバッグにぶつけた。
2回目は、ソーダと混ざっていくアイスとの闘いだった。溶ける前に早く食べなければと奮闘している俺に、母さんは「スキなのはわかるけど、ゆっくり食べなさいね」と言った。
母さんの期待通りにゆっくり、綺麗に最後まで食べられたのは5回目だったろうか。その頃には、さくらんぼも食べ方もマスターしていた。
最初にさくらんぼを食べると、どうしても種や茎を別に置いておかなければならない。4人掛けのテーブル席の通路側に座ることの多い俺には、自分で紙ナプキンを取るのは難しかった。母さんたちの話の邪魔をすれば、また怪物が家に来る。そう知っていたから、俺なりに考えた。
さくらんぼは最後まで残しておく。余った氷と氷に囲まれたソレを、スプーンで取り出して食べる。邪魔になった茎をコップの中に落とす。食べ終えて口の中に残った種をスプーンに乗せて、氷と氷の間に静かに戻す。スプーンから手を離して、おしぼりで手を拭いてから「ごちそうさまでした」と手を合わせる。
俺が綺麗にクリームソーダを食べ終えること。それは同時に、彼女たちの逢瀬が終わる合図だった。

そういえば、クリームソーダで思い出すことが、もう1つだけある。
あれが何杯目のクリームソーダだったのかは忘れたけど、その日は蒸し暑い日だったと思う。冷房の効いたファミレスの店内で、それでも口内を冷やしたくて、俺はいつもより早いペースでアイスを頬張っていた。アイスを食べるのを速くした代わりに、ソーダを飲む速度は落とそう。そう考えていた俺は、ふと隣のテーブルからの視線に気づいた。
視線の主は、俺より小さな男の子だった。
斜め前の席に座った男の子は、大きな目でジッと俺を見ている。と思ったけど、見ていたのは俺じゃなかった。その子は俺の飲んでいるクリームソーダをジッと見ていた。
彼は自分の分であろうお子さまランチについているオレンジジュースと俺のクリームソーダを交互に見ていた。
羨ましい、と気持ちがむき出しの目。笑顔でいい子を取り繕っている俺には眩しい、子どもの素直な目。
その子は、白いプラスチックの取っ手付きのコップの中の果汁100パーセントのオレンジジュースより、透明なガラスの背の高いグラスの中のメロン色のソーダと、その上のバニラアイスとさくらんぼが食べたくなったんだろう。純粋に、猛烈に、鮮明に。
だけど、その子は隣の母親にも、向かいにいる父親にも、クリームソーダを食べたいとは言わなかった。お子さまランチを頼んでくれた両親に文句があるわけではなかったのだろう。
そのテーブルでまだ何かを口に運んでいたのはその子だけだったが、両親はオレンジジュースを飲むペースを落とした息子を叱ることなく、食後の時間をゆったりと過ごしていた。
ふと、隣を見る。母さんは男の人と車の鍵の話をしていた。同じテーブルを使っているはずなのに、俺と2人の間には見えない仕切りがある。きっと彼女たちの世界で、俺はおしぼりやカトラリーやクリームソーダと変わらないのだ。そこに存在しても、自分たちに干渉しないもの。もの、だ。おれは、ものだ。
奥歯をぐっと噛みしめて、長いスプーンを握り直す。
今更だった。そんなの、前から知っていることじゃないか。悔しいとか、悲しいとか、ツラいとか、そういう気持ちはもう俺を蝕んだ後じゃないか。だから、悔しくない、悲しくない、ツラくなんてなかった。
俺は半分になったバニラアイスの横のさくらんぼを睨んだ。このさくらんぼをあの子にあげるというのはどうだろう。そう考えた。アイスは溶けてしまうし、ソーダは零れてしまう。だけど、さくらんぼなら、小さいし手のひらで隠せるし。あの子もクリームソーダを飲んだ気分になれるのではないだろうか。
……そこまで考えて、やめた。
勝手に席を立つと母さんに咎められる、というのもそうけど、このチンケなさくらんぼ1つが彼を喜ばせるものになるとは思えなかった。
あの子はきっと、お子様ランチに満足しているだろう。
それに、彼の両親がいつかクリームソーダを頼むこともあるだろう。
その時に、バニラアイスの冷たさも、ソーダの喉をつく刺激も、さくらんぼの呆気なさも、体験することになる。それがいい。そのほうがいい。
チラリと斜め前のテーブルの様子を見る。オレンジジュースを飲み終わったその子が、両親に連れられて帰るところだった。
その姿を見送りながら、いつもは最後に食べるさくらんぼを口に入れた。クリームソーダに向けていたあの子と同じ目をしていれば、俺もキレイなままいられるのだろうかと思いながら。

「悠太は本当に甘いものが好きだよね」
「うん!」
炎天下の撮影の合間に、スタッフが気を利かせて進めてくれたファミレスで、俺達はつかの間の休憩を取っていた。
テーブルを挟んで向かい側に座るチームメイトは、嬉しそうにクリームソーダを飲んでいる。母さんから離れて知ったことの1つが、クリームソーダというのはメロン色だけではない、ということだ。赤や青もある。バニラアイスがソフトクリームであることもあった。
「クリームソーダね」
「ケンケンは、食べたことない?」
「あるよ。小さいときは、ファミレスに行けばいつもクリームソーダだった」
「えー!いいなー」
ぐてんと背凭れに倒れた悠太が、ね、と剛士に話しかける。剛士はさっきから我関せずと言うように台本を読んでいる。当然、悠太の問いかけにも答える気配はない。返答を期待していなかったのか、悠太は俺に視線を戻して続けた。
「僕ね、小さいときどうしてもクリームソーダが食べたくって、お店の外ですっごく大きい声で泣き出したことがあるんだって」
「……迷惑なガキだな」
話だけは耳に入っていたのだろう。剛士がボソリと吐き捨てた。
「だあって、こ~んなにおいしいんだよ!アイスものってるし、ソーダもおいしいし、さくらんぼものってる!」
「へぇへぇ」
「真面目に聞いてよ!」
剛士に軽くあしらわれた悠太が頬を膨らませる。うるさいと言わんばかりに手で追い払われて、リップロールを浴びせている。剛士が顔を顰めて、悠太に背を向けた。
「もー!……ケンケンも小さいときは、クリームソーダ好きだった?」
長いスプーンが、バニラアイスを赤いソーダの中に押し沈めた。細かな泡が、ぶわりとコップの中に広がる。涼し気なその様子に、俺は苦笑した。
「大嫌いだったよ」
そう言いながら手を伸ばして、浮かんでいたさくらんぼを摘まんで、サッと口に入れた。
悠太が目を丸くして驚いて、その後「あー!」と大きな声を出した。剛士が眉を寄せて、手で耳を塞いでいる。
さくらんぼはほんのり冷たい。それから、少しだけ甘かった。