キツネ狩り

 

愛染さんが倒れたと聞いて、すぐにタクシーを呼んだ。
悠太くんによると、病院ではなく自宅にいるらしい。マンションの住所をタクシーの運転手さんに伝えて、後部座席で息を吐いた。

夜中の、しかも突然の訪問。玄関で私の顔を見て、たちまち渋い顔をした金城さんには、「お前も女なら、時間を考えろよ」と怒られてしまった。
顔だけ見たらすぐに帰ると約束をして、頭を下げる。悠太くんのとりなしもあって、なんとか部屋にあげてもらえた。

「倒れたっていうか、倒れてたんだよね」
愛染さんの部屋へ向かう途中、悠太くんが言った。それは警察沙汰なのではないだろうか。
「け、警察には?」
「言ってねえ。アイツが言うなってうるせえから、社長にだけ連絡した。ついでに言うと、病院にも行ってねえ」
後ろを歩いていた金城さんから、不満気な声が上がる。
ここだよ、と言って悠太くんがドアをノックした。
「ケンケーン、入るよー」
それだけ言うと、2人は部屋の中に入っていった。一瞬、戸惑ってその後に続く。

スッキリと片付いた部屋の中、ヘッドボードに背を預けてベッドに入っていた愛染さんが、驚いたようにこちらを見た。
「え、つばさ?」
「あの、倒れたと聞いて、その、心配で」
「ああ。……こんな夜中に、男の部屋なんか尋ねさせて、ごめんね。全然、大したことないんだ」
そう言った愛染さんは、少しボンヤリしていたけど、身体に大きな不調があるようには見えなかった。ただ、私が部屋に入った時、足を隠すようにしていたのが気になっていた。それを聞こうと口を開く前に、愛染さんが「剛士」と金城さんを呼んだ。
「つばさを送って行ってあげてよ。もう遅いし」
「は、タクシーでいいだろ」
「ダメだよ。世の中、物騒なんだから」
お願いと言われて、金城さんは私を玄関で出迎えた時の2倍、渋い顔になった。
「いいです、いいです!こんな時間に、本当にすみません。タクシー呼びますから」
「……はあ、車出す。愛染、お前はもう寝ろよ」
金城さんがため息とともに言って、部屋から出て行った。突然のことに衝撃を受けたとはいえ、考えなしに来てしまったことを反省する。すみません、と謝って部屋を出ようとしたところで、愛染さんに呼び止められた。
「ありがとう、つばさ」
その様子はボンヤリというか、なんだか怯えているように感じた。一体、何に?と考えだそうとしたところで、金城さんの急かすような声が聞こえ、そそくさと部屋を出ることになった。

玄関に向かう途中、悠太くんが小さな声で私に教えてくれた。
「ケンケンを見つけたの、僕なんだ。帰ってくる途中、車の窓からケンケンが倒れてるのを見つけたの。ここからちょっと行くとコンビニがあるでしょ?そのすぐ向こうの角なんだけど」
でも、どうしてあんなところに居たんだろう。話の最後の方は、独り言のようだった。

タクシーとは違う車の中、後部座席で息を吐く。行きとは違った緊張で、お腹が痛くなりそうだ。チラリと外を見れば、悠太くんの言っていたコンビニがあった。倒れていたのは、この辺だと言っていたはずだ。
「アイツの、右の足首」
「は、はい?」
その時、それまで黙っていた金城さんが口を開いた。
「愛染の足首に、痕があった」
「痕、ですか」
「何に掴まれたら、あんな」
言葉は途中で止まった。
「え?」
「いや、何言ってんだ、俺は。今のは、忘れてくれ」
それから、私の家に着くまでの間、金城さんは口を開かなかった。

そんなことがあった4日後の日曜日。私は喫茶店の奥まった席で、愛染さんと向き合っていた。
ティータイムを一緒に過ごさないかとお誘いを受けて、ハーブティーと季節のフルーツタルトをご馳走になっている。
「この間は、ごめんね。あの後、悠太がグループトークでポロっと喋っちゃったから、ちょっとした騒ぎになっちゃって」
仕事でもないのに、Bプロの全員と顔を合わせたよ。
愛染さんは困った顔で、ハーブティーに口をつけた。真似をするように、カップを持ちあげて一口頂く。ふわりと香ったのは、オレンジの香りだ。
「わあ、おいしいですね」
「だよね」
そう笑いあって、カップを置いた。コトリ、と音が鳴ったのと同時に、愛染さんの表情が変わった。
「誰にも言わずにおこうかなって、思ってたんだけどさ。誰かに聞いてもらった方がいいような気もして」
迷うように左右に泳いだ目が、私を捕らえる。あの夜のことだと確信して、居住まいをただした。
「私でよければ」
「聞き流してくれていいよ。釈然としない話なんだ」
愛染さんはそう前置きをして、話し始めた。

本当はあの日、仕事が終わってマンションについたのは、8時ぐらいだったんだ。
うん、俺が悠太に発見されたのは、10時過ぎだって言ってたね。
だから、2時間ぐらいの誤差があるというか。まあ、俺が嘘をついているっていう考えも捨てずにいてほしいんだけど。
撮影現場からマネージャーに送ってもらって、マンションの駐車場に着いたのが8時くらい。「今日は早く上がれたね」なんて言って、次の日のスケジュールだけ車の中で確認したんだ。
車から降りた後は、すぐにエレベーターに乗った。

朝から体調がよくなかったんだ。熱っぽいっていうのかな、身体が重くて。次の日は昼からだけど撮影と取材が入ってたから、早めに休もうと思ってたんだよ。
剛士は午後から休みだったけど、まあいつも通り地下スタジオにいるだろうし。シャワーを浴びたらすぐに寝ようって、ぼんやり考えてた。
エレベーターに乗ってる時ってさ、結構ボーっとしてるよね。仕事帰りだと、疲れてるし。ついでに、体調も悪かったしね。
いつもの階で降りてさ、ドアの前で鞄から部屋の鍵を出して。いつも通りだよ。そこまでは、いつも通り。

……ドアにさ、鍵穴がなかったんだ。思わず、「は?」って言っちゃったよね。
そんなに疲れているだろうかって、目を瞑って、深呼吸してみたりして。
目を開けるじゃない?ドアはあるんだよ。ドアって言っていいのか分からないけど。
だって、鍵穴もなければ、ドアノブもないから。そうなると、そこだけ色の違うただの壁だよね。
これじゃ、部屋に入れないな。そう思った。今思うと暢気なことだけどさ。
絶対馬鹿にされるだろうし、そもそも気付くかどうかも分からないけど、剛士に連絡しようか。とりあえずそうしようって携帯を出した時、すぐ近くで犬の鳴き声が聞こえた。

ワンワン、なんてかわいい感じじゃない。ヴァオン。怒鳴り声みたいだった。
ビックリしたよ。マンションの中に犬がいるなんて、想定してないからね。
自然に、鳴き声がした方を向いた。それは、ついさっき降りたエレベーターの方向だった。
世の中にはかしこい犬がたくさんいるけど、さすがにエレベーターに1匹で乗れる犬っていうのは聞いたことがないかな。俺はね。だから、仕事が早く終わった悠太のいたずらか、ドッキリだと思ったわけ。

ソイツは、エレベーターホールに、黒いスーツ姿で立ってた。背丈や体格だけなら、弥勒や野目に近いかな。
顔の横に垂れた耳があって、茶色と白の混ざった毛をしていて、血走った目で俺を見ていた。
最初は、なんだか分からなかったんだ。でも、とにかく逃げなくちゃいけないって、本能が訴えた気がして。ドアは開かないから、反対側へ走った。

ちょっとそこからは記憶が曖昧なんだけど、気付いたら息を切らしながら、非常階段を下ってたんだ。後ろから追いかけてくる足音が聞こえるから、俺も必死だった。
休む間もなく階段を下りて、やっと地上についた頃には、汗だくだった。身体も随分怠くて、出来ればその場に座り込みたかったね。
だけど、アイツがいつ追いつくか分からない。思考がちゃんと動いてなかった俺は、直前までしようとしていたことしか頭になかった。つまり、剛士に連絡を取らなくちゃと思ってた。考えがまとまらない時っていうのは、後先のこと考えないじゃない?俺、その足で地下スタジオに行こうと思ったんだよね。我ながら、どうかしてるよ。
だって、追いかけられてる状況で、地下なんて逃げ場のない場所に行かないでしょ。普通は。ああ、スタジオの中に籠城は出来たかもね。……今さら何を言っても、どうしようもないけどさ。

地下のスタジオに行くには、エントランスからエレベーターに乗らなきゃいけないから、俺はマンションの正面玄関へ向かった。どうして朝、スニーカーを履かなかったんだろうって思いながら。
非常階段の出口はマンションの裏にあるんだ。申し訳程度に街灯がある脇道をぐるっと回って、やっと自動ドアが視界に入った時にさ、今度は「嘘だろ」って言っちゃったよ。
さっきのヤツとは別の、“犬”が自動ドアから出てくるのが見えたんだ。

明言はしてなかったけど、アイツらは犬だと思うんだよね。体つきは人間みたいだけど、スーツの袖口から覗いている手には、肉球があったし。顔は完全に、犬。
想像はつくかもしれないけど、ソイツも俺を追いかけてきたよ。別人、いや、別犬だから、優しい声で挨拶してくれるとかではなかった。
ただ、その犬と目が合って、アイツが走り出したとき、人間の声が聞こえた。くぐもっていて、はっきりとしてなかったけど、「あそこだ」とか「あっちだ」とか。俺を追いかけろっていう指示だと思うんだけど。犬の方は、低く鳴いて返事をしていたから、アイツが喋ったわけではないはず。

そんなわけだから、俺はとにかく逃げたよ。
挟み撃ちにされないように車道へ出て、たぶんコンビニの方へ向かったのかな。
車道に車が一台も通ってない。通りに人の気配がない。おかしいことだらけなのに、気にする余裕は全くなかった。捕まったら終わりだって、それしか頭になかったんだと思う。
後ろを振り向く余裕はないし、恥ずかしながら膝が笑っててさ。息もうまく出来てなかった。そこかしこから、犬の鳴き声がする気がして、足を止めるわけにいかないし。
上からなのか横からなのか分からないけど、2、3人の人間の声がさ、「逃がすな」「追い詰めろ」「弱ってきたぞ」ってザワザワするんだ。耳を、塞ぎたかった。
「いい気味だ」「意外としぶといな」なんて。犬の鳴き声よりもそっちの方が、よっぽど。

え、ああ、ごめん。大丈夫。……ふう。
犬ってさ、すごく速いと思わない?俺の足で、逃げ切れるはずがなかったんだよね。
目の前が霞んだ、その一瞬でさ、後ろからドッと伸し掛かられた。
グッと息が止まって、俺はそのまま地面に押し付けられたんだ。
頭の後ろで、グウグウだかグルグルだか、犬が唸っているのが聞こえる。俺は、身体を捻って、腕を滅茶苦茶に振り回したよ。たまたま、犬の鼻に拳が当たって、相手が怯んだのが分かった。
よし、と思った。この隙を逃したらダメだと思ったから、足に力を入れた。
でも、踏ん張った右足に鋭い痛みが走って、俺はバランスを崩した。振り返ったら、右の足首にアイツの鋭い爪が突き刺さっているのが見えた。
すぐにもう1匹の犬が背中に乗っかってきて、ガウガウ、空に向かって吠えた。
人間の声が「グッボーイ」「ざまあみろ」「やったぞ」って、喜んでたよ。
俺の口は、「ごめんなさい」って言葉を、意味もなく繰り返してて。
赤い舌が。大きな犬歯が。犬が口を開いて、俺の足に歯を立てたのが見えた。
次に分かったのは、痛み。肉を噛みちぎられる、ひどい痛み。それから、熱さ。その箇所が燃えるように、熱くて。
喉の奥から、自分でも聞いたことがないような悲鳴が出た。
人間たちの笑い声が、聞こえる。犬の唸り声がする。あたたかい血の匂いがする。
そこから、記憶がない。

ハッと息を吸う。いつの間にか呼吸を止めてしまっていたらしい。
「気付いたら、俺の部屋のベッドの上だったんだ」
剛士と悠太が、変な顔して俺を覗き込んでて、不覚にもホッとしたよ。
愛染さんは、そう言ってその話を終わらせた。

甘いものを食べると、心がほわりと落ち着く気がする。ハーブティーと季節のフルーツタルトは、とても美味しかった。
昼下がり、カフェには優しいピアノの音色が広がって、今までこのお店を知らなかったことがひどく惜しいと思ってしまう。パンケーキもフワフワでおいしいらしいので、今度はそちらを食べに来ようと決める。
2つのカップが空になった後も、しばらく取り留めのない話をしていたのだけど、愛染さんの携帯が震えたのがキッカケになってお開きにすることにした。
そう言えば、席を立ってから気が付いたのだけど、彼は今日スニーカーを履いていた。