午後11時。もうだいぶ住み慣れたはずのマンションのロビーの隅っこで体を小さくしながら、愛染健十の心は大いに迷っていた。
「……帰れない」
財布も鍵も持っていない。そしてスマートフォンだけは持っている。先ほどからいろんな音で鳴り続けるそれを無理やりに切ったので、ちゃんと知っている。それに鍵がなくたって、一人暮らしではないのだから住人がいる部屋の扉は簡単に開くはずだ。
帰れる場所はある。でも、帰れない。
「ああああ」
小さく小さく出した意味のない母音が滑稽だった。だって、そんな。いやいや、そんな。
混乱する頭が、先ほど吐き出した言葉を思い出す。
『正確に言うと、今から、振られる予定なんだけど』
言うんじゃなかった。出来上がったムードに流されて、言ってしまったけど、あのタイミングで言うつもりじゃなかったっていうか。言うんだったら、きっぱり告白すべきだったっていうか。こんな後回しにしてしまうとか、俺ってバカなのか。
「しかも、混乱した勢いで出てくるとかさ」
映画を見て気分が高ぶっていたのだ。と言い訳のように自分に言い聞かせる。叶わない恋をしている主人公に自分を重ねて、ぶっきらぼうな相手にアイツを重ねて。彼が息を引き取った時には、本当に悲しくなってみっともなく泣いてしまった。冷静に考えれば、作り物のそれにどれだけ感情移入しているんだという後から思い出して恥ずかしくなる話だ。それになぜか鼻水も止まらなくって、ティッシュなんて一箱使っちゃうし。
恋愛映画が苦手な剛士をなんとかかんとか引き留めて、「後で感想とか聞いてくんなよ。俺は見てるだけだからな」と念を押すように言われて頷いた時は、映画の最後にこの募った思いだけでも伝えられたらいいなと思っていた。そして、一刀両断に振ってほしかった。
それがどうしてこうなったのだろう。失恋しても誤魔化せるように泣ける内容を選んだのがいけなかったのかもしれない。
「ボロ泣きは、ないだろ」
ないない。しかし、ボロ泣きしたのは自分だ。
今更かっこいいとかかわいいとかそういう風に思われたいという考えはない。だけど、『自慢の顔も台無しだな』とからかわれたときのやわらかな目元に少しだけ期待してしまった。
「ごうしのばか」
八つ当たりのように口に出すと、気持ちがちょっとスッキリした。
ズズッと鼻をすすって、今日はどうしようかと考える。こんな時間でも起きてるような知り合いはいるだろうか、と連絡を取ろうとして、さっき電源を落としたばかりのスマホを見つめる。混乱しながらエレベーターに運ばれている間も、何故かずっと鳴っていた。だから余計に混乱したのだけど。
意を決して電源を入れると、図ったようなタイミングで着信音がロビーに響いた。画面には『金城剛士』という素っ気ないフォントが浮かんでいる。じっと見つめていると、鳴りやんだ。そして、ホッとする間もなく、鳴り出した。ホラーかよ、と思わなくもない。
重たい気持ちで、画面をタップする。
「はい」
「今どこだ」
「……ロビー」
「すぐ、上がって来い。いいな」
「……」
「逃げてんじゃねえぞ」
「うん」
ブツリと切れた電話の向こうで、思ったほどアイツが怒っていなかったことに安堵した。きっと剛士だったら、言い逃げなんて卑怯なことは絶対しないんだろうと思う。何にでも思ったように、全力でぶつかっていくような奴だし。
グッと下唇を噛みしめて立ち上がる。当たって砕ける勇気をもらった気がした。
◆
そう、当たって砕ける勇気をもらった気がしたのだけど、今の状況をどうしようか。
とりあえず戻ったら鼻をかんで、顔を洗って、前髪を確かめてから剛士の部屋に行って、という段取りを考えながら玄関のドアを開けた瞬間、隙間から伸びてきた手にガッと腕を捕まれた。驚きの声も上げられないままその手に引っ張られた俺は、あれよあれよという間に剛士の自室へと連れ込まれた。さらに乱暴にベッドに投げ倒され、文句を言う暇もなくその人物にギュウギュウと抱きしめられている。
ええ?なんだ、この状況。あれ、剛士だよね?悠太じゃないよね?
「あの、ええと、剛士?」
「すきだ、あいぞめ」
微かに首筋に触れた唇から熱い息とともに吐き出されたその言葉が、最初は異国の言葉のように思えた。
「お前が好きだ」
そう言って鼻先をグイグイと鎖骨に擦りつけた男は、あいぞめ、あいぞめと子どものように俺を繰り返し繰り返し呼ぶ。吐き出される荒い息がくすぐったくて身体を揺すると、その僅かな動きさえゆるさないというように腕に力がこもった。
「え、え、何」
「逃がしてたまるか」
や、もう逃げないけど、さ。
俺に鼻先を押し付けながら貼り付いていた剛士は、しばらくすると満足したように腕を緩めた。まあ、緩めたといっても、依然俺はベッドに押しつられているわけだけれど。
「お前、前に女を落とすならちょっと甘えてみるのがいいって言ってたよな」
「え、いつの話」
「なあ、愛染。俺のこと、好き?」
剛士はこてんと首を傾げて、不安げな声を出した。でも、その目だけはギラギラとまっすぐ俺を射抜いている。これって。甘えてるっていうのか?というかそもそも。
「おれ、おんなじゃない」
「愛染が俺のこと好きって言うまで、部屋には帰さねえから」
……ちょっと前まで言おうと思ってたけど、お前が先に言っちゃったんだよ。って言ってやったら、どんな顔をするだろうか。伸びてきた人差し指が、催促するように唇を突く。顔を横に逃がすと、滑った指が唇を割って歯に当たった。剛士の爪と俺の歯がカツリと音を立てる。
「ちょ、む、ごぉし」
「言え」
もう甘えるとか忘れてんな、コイツ。
なおも押し入ってくる指に噛みつく。そのまま舌を這わせれば、マウントポジションを取っていた剛士の体がビクリと揺れた。抜かれていく指にちゅっと吸い付いて、剛士を見上げる。悩ましく細められたガーネットの瞳と目を合わせて、俺は口を開いた。
