彼は、僕の左側にいることが多い。
僕が1人でいたい時に限って寄ってきては、嫌味なほど高い位置から、ニヤニヤした雰囲気を纏って覗き込んでくる。
まるでお気に入りのおもちゃでも見つけたかのように「ねえ、ちょっと」と気の抜けた声を出すので、そういう時は絶対に振り向いてやるものかと無視をすることにしていた。
「ねえ、ねえ」と少し高い声が左上から僕の耳をくすぐっても、僕はそれにため息を返す。
わざわざ構ってやる義理はない。
あんまり無視をしていると、寂しいのか耳に息を吹きかけてきたり、体温の低い指で頬を突いてきたりする。本当に鬱陶しい。
一体何だというのだろうか。僕は構ってくれなどとは言っていないのに。
彼から逃げるように顔の向きを変えても、手で追い払っても、彼は気にもしていないようだった。
彼はいつも気まぐれにやってきて、視界の端でユラユラと機嫌よさそうにしている
ああ、ほら。またやってきた。
「ねえ」と左上から声が降ってきた。
集中して課題を終わらせようと、わざわざ図書室までやってきたというのに、彼はそんなこと関係ないと言うように話しかけてくる。
「ちょっとぉ」
「こっち見てよ」
「おーい」
「ねえ」
「聞こえてるんでしょ」
「ねえったら」
「その本おもしろいの?」
「おい」
「無視すんな」
彼がだんだんイライラしてきているのが、声の調子や口調で分かる。
だけど、同じくらいこちらもイライラしているのだ。
勉強がしたいのだ。時間が惜しい。早く課題を終わらせて、モストロ・ラウンジに顔を出さないといけないし、ポイントカードと引き換えの相談事の予約も今日は3件入っている。こんなおふざけに付き合っている暇はないのだ。
早く飽きて、どこかに行ってしまえばいいのに。
そう思いながら、僕は魔導書を開き、目の前の活字を追うことだけに集中する。
「こっち見ろって言ってるんだけど!」
吠えるような野太い声が、耳元で吠えた。
流石にうるさい。ここは図書室だぞ。
しかし、ここで振り向いてしまえばヤツの思い通りなので、僕は何も聞こえないふりを続ける。
そのうち飽きてしまうだろう。「つまんない」と離れて行けば、僕の勝ちである。
「……ひどい、ひどいよ」
そのうち、グスリグスリ、とすすり泣く声が聞こえてきた。
もちろん、嘘泣きである。
今日はやけにしつこいな。
碌に読めていない魔導書のページをめくる。……全然、集中できない。
ああくそ。後でもう1回読み返そう。
課題が早く終わるなら、新刊コーナーに立ち寄って、経営学の本を見繕うつもりだったのに。
「ねえ」
「ねえ」
「……」
「……」
「あーあ、つまんない」
左上の気配がユラリと消えた。
よし。
今日も勝った。
図書室でしつこく話しかけてくるなんて、常識知らずにも程があるというものだ。
文字を追っていた本を閉じて、そのまま貸出カウンターに向かう。
課題はラウンジが閉まった後にやろう。
全く。ひどく無駄な時間だった。
図書室を出て、寮へと歩き出す。
前からジェイドとフロイドが歩いてきた。
「おや、今日は図書室にいたんですね」
「もうすぐ開店時間だってのになかなか来ないからさー、迎えに来てあげたよ。オレたちえらいでしょ?」
「すみません。少し外せなくて」
僕は左の肩をトントンと叩いて見せた。そして、人差し指で空を指す。
「何か、います?」
「……いいえ、何も」
ジェイドは空に目をやって、少し困ったように笑って見せた。
「また来たの」
「ええ、まあ」
「ふぅん。しつこいね」
フロイドは珍しく表情のない顔で僕の頭上に目をやり、それだけ言って踵を返した。
どちらにしろ、彼は2人には見えていないらしい。声も、きっと聞こえていないのだろう。
「ちょっとフロイドに似ているんですよね」
「げえ、それ全然うれしくねー」
苦いものでも口にしたみたいに、フロイドが舌を出して顔を顰めた。
あまりにも露骨な嫌がり方に、笑ってしまう。
「もー、早く行くよ。今日、予約入ってんでしょ」
「ええ。アズール、約束の時間まで30分です」
「そうでした。商売は信用第一、遅刻厳禁です。さあ、今日もしっかり儲けましょう」
「ふふ、はい」「はぁ~い」
そうこうしながら3人で寮に向かう途中、少しだけ振り返ってみる。
後ろを歩く2人の向こう、天井の暗闇からぶら下がっている彼の身体が不安定に揺れていた。ブラブラと揺れる千切れた鰭が、コチラに手を振っているようにも見えた。
全身真っ黒なアレが、一体何なのか。僕には分からない。
彼はいつの間にか僕の傍にいた。視界の端の暗闇に。
僕は何も見なかったふりをして、前に視線を戻した。
「つぎは、ちゃんとあそんでね」
そんな声が、やけに近くで聞こえたような気がした。
彼は、僕の左上にいることが多い。
たぶんそれは、ただの気のせいである。
