突然部屋に入ってきたフロイドが、何も言わずに僕を抱きしめた。
僕は読んでいた本をサイドテーブルに置いて、右耳に触れる少し乱れた呼吸を聞く。
背凭れにしていたクッションに、フロイドの重み分身体が沈んでいく。
「フロイド」
名前を呼べば、肩だけがピクリと動いた。
ピリピリした空気は感じられないから、特に機嫌を損ねているとかではなさそうだ。
フロイドは気分の浮き沈みが激しい奴である。その分、自分が気分屋だと十分に分かっているし、その気分に自分を合わせていくのが上手い。気分が急に落ちる時、そんな自分にビックリしたりしないし、イライラしたりしない。だけど時々混乱することがあって、そういう時にたまにジェイドじゃなく僕のところに来ることがある。
「イライラすんの」「アズール」「いらねぇーもん、全部壊したくなる」「でも約束したから我慢してんよ、オレ」「アズール」「壊してぇ」「ホント」「えらいでしょ?」「イヤだな」「こわい?」「嫌だ」「ねえ、どうしたらいい?」「アズール」
そう言って、彼は僕をギュウギュウ抱きしめる。
腕の力は強いし、時々癇癪を起して噛みついてくるので痛い。呼ばれる名前や質問しているように感じる言葉たちは特に僕の答えなんか求めていなくて、ただただ迷子になった感情が形を求めてフワフワ声になっている。きっとフロイドの頭の中では、感情がすごいスピードで駆け巡り、整理されているのだろう。
フロイドは1人で喋り続ける。そして僕をギュウギュウ抱きしめたまま眠って、朝起きればケロッとしていつも通りになる。
寝ぐせをつけたフロイドは「おはよ」としか言わないし、僕も「おはようございます」としか言わない。せいぜい洗面所で首筋に着いた噛み痕を見つけた時に、「あのやろう」と思うだけだ。
機嫌が悪いわけではないなら、どうしたのだろう。
静かなフロイドに、少しだけ心配になる。
熱でもあるのだろうかと腕を持ち上げようとしたら、伸びてきた手に絡めとられてしまった。
……何を考えているのか分からない図体のデカい男に、身体の動きを制限されている。それなのに、少しも恐怖を感じないのは彼がフロイドだからなのだろうか。
「フロイド」
もう一度名前を呼ぶ。返事はない。
こめかみに頬がすりすりと擦りつけられて、少しくすぐったい。彼の頬はベルベットみたいに滑らかだ。
「フロイド」
名前を呼ぶ。耳の縁に、彼の唇が当たった。言葉を発しない唇は、そのまま僕の耳の形を確かめるように縁を食んでいく。性的な温度は感じないものの、温かい呼吸が耳を湿らす感覚に身体が震えた。
震える身体を、背中に回された腕が引き寄せる。
「……、フロイド」
名前を呼ぶ。返事はない。
「顔が見たい」
カリリと耳たぶを噛まれた。痛いとも言えない力加減。甘噛みだ。
「フロイド」
「うん。なぁに」
また無視されるだろうと思っていたのに、今度は返事が来た。
フロイドの双眸が目の前に現れる。ああ、顔が見たいと言ったからか、と思う。
「何、は僕のセリフですよ」
「うん」
「どうしたんです」
「うん。アズール」
返事は来るが、会話にならない。フロイドが僕の目を覗き込むようにして近づいてくる。あまりに近いので、二人の額がピタリとくっついた。ジッと目を見られるのは、なんだか落ち着かない。
「気分が分からなくなりましたか?」
「ううん」
「では、体調が悪いとか」
「絶好調~」
フロイドの口角はゆるりと上がっていて、やはり機嫌は悪くない。額の冷たさが伝わってくるから、熱があるわけでもなさそうだ。
絡まったままだった手がぎゅむぎゅむと僕の手を握って遊んでいる。
「じゃあ、何がしたいんですか」
「特にしたいことはねぇよ」
「では、僕に何か言いたいことでもできましたか」
抱き着くというのは、ある種のボディーランゲージだ。ボディーランゲージは、自分の言いたいことをきちんとした言葉に出来ない時に出てくるものである。
言いたいことがあって、でも伝え方が分からないからとりあえずぶつかってみる。というのは、フロイドならあり得る。そして機嫌が悪いと、コレがとりあえず絞めるになるのがフロイドだ。
「うん。う~ん? あるのかな」
「あるからここへ来たのでしょう。何でもいいので、今の気分に近い言葉を当てはめてください」
僕がそういうと、フロイドは「わかった」と体を起こした。当然、その手は僕の背中に回ったままなので、僕の身体も一緒に起き上がる。その勢いで、くっついていた額がゴツリとぶつかった。痛い。
「いってぇ。アズールの石頭~」
「僕だって痛い。……それで?」
「うんとね、今日小エビちゃんたちと話してた時にアザラシちゃんが「お前、アズールの話ばっかなんだぞ」って言うから、そうだっけ?と思って」
「はい」
フロイドの手が僕の背中をポンポンと不規則に叩く。そのテンポと手のひらが心地よくて、ちょっと眠くなる。
「ジェイドに「オレってアズールの話ばっかしてる?」って聞いたら、「今日フロイドが会話中にアズールの名前を出したのは、先ほどのものを入れて四十三回ですね」って言うわけ。四十三回って多いっけ?って思って、試しにジェイドの名前四十三回呼んでみたんだけどー」
「四十三回って結構多くね?」とフロイドは困った顔をした。
「そんなにアズールのこと喋ってるのかぁって、アズールのこと考えてたら、だんだん会いたくなってきてぇ。で、「アズールんとこ行って来る」って気づいたら部屋出てた。そんで、さっきアズールの顔見たら、抱きしめたいなって」
「はぁ」
「でぇ、今はね、アズールあったけーなって思ってる」
「それは僕も思ってます」
海の中ではなかなか感じられなかった、温かいという感覚は結構気に入っている。(暑いは嫌だけど)それにフロイドの体温は、触れているとちょっとホッとする温かさだ。
「そんで、髪の毛がいい匂いする」
「ああ、この間作ったシャンプーの匂いですね」
「うん。それからぁ、アズールの耳ってマカロニみたいな弾力だね」
「今日の賄いはグラタンでしたね。エビが美味しかった」
「うん」
フロイドの頭がポスリと肩に落ちてきた。少し重いが、耐えられないほどではない。
彼の喋り方は独特で、なんだか歌っているような抑揚がある。高くなったり低くなったり、速くなったりゆっくりになったり。
「あはっ」
「なんです」
「オレ、アズールのことしか考えてねーや」
「……、本当ですね」
「やべー」
「ウケる」という声が、僕の首の付け根に染み込んだ。なんて愛しい上ずった音だろうか。
絡まっていた手を無理やりほどいて、丸い後頭部を撫でる。指先を髪の中に滑らせ、地肌をいたわるように揉む。根元がちゃんと乾いていないのか湿っていた。
眠そうな声で「きもちいー」と言われて、思わず笑ってしまう。
そのまま後ろへ体重をかけて、2人でベッドに横になる。
フロイドはゴロリと転がって仰向けになり、目を瞑った。
「アズールはさぁ、マドルのことばっか考えてんでしょ?」
「いきなり失礼なことを言うな、お前は」
「オレがアズールのことばっか考えてるみたいに、オレのこと、考えたりすんの?」
引っ付いてきた手を握ってやると、指がするりと絡む。あったかい。
「今は、お前のことだけ考えてますけど」
「マジ?」
「部屋に入ってきた時からずっと、フロイドのこと考えてますよ」
どうしたのかなとか、体調が悪いのかなとか、あったかいなとか、手が気持ちいいなとか。
ああ、瞼が重くなってきた。
「それに、ベッドの上で他の男の事を考えるのは、どうかと思います」
「アズール、かっこいー」
「でしょう?」
照明を落とす気配がする。次いで、フロイドが体勢を変える音がした。
身体にバサッとシーツがかけられて、その上から抱きしめられる。
「オレ、やっぱりアズール好きだなぁ」
「僕もフロイドが好きです」
近くにあるフロイドの呼吸に、自分の呼吸を合わせていく。
吸って、吐いて。吸って、吐いて。
他人の呼吸に速度を合わせているはずなのに、こんなにも息がしやすいなんて。
それこそ、ウケる。
「おやすみぃ」
ええ。おやすみなさい。
意識が眠りに落ちる直前に、彼が僕を呼んだ気がした。
甘さに歯が痛くなりそうな声だった。
