お腹と背中がくっつくぞ

!捏造がいっぱい。

 

「美味しいもの」は、魔法のように満腹感と幸せを運んでくれる。
歯で感じる弾力、舌で感じる旨味、喉を通っていく時感じる、ほんの少しの圧迫感。
ああ、お腹の中へようこそ。僕の幸せたち。
嫌なことも、悲しいことも、その幸せには叶わない。嗚咽も、涙も、墨も、全部飲み込んでしまえる。
美味しいものが食べたい。――僕は食べるのが大好きだ。

「お腹すいた」
アズールがポツリと零した小さな声に気付いたのは、近くで書類をまとめていたジェイドだった。彼は目だけを動かして置き時計を確認する。モストロ・ラウンジが閉店してから、1時間ほどが経っていた。ついでにと目を向けたソファーの上では、自分の片割れが目を閉じて横になっている。革張りのソファーが1人に占領されていることを、今更咎める者はこの場所にはいない。ジェイドは手に持っていた紙の束を「トン」と机に落とし整え、無駄のない動きで処理済みのファイルに閉じた。
先ほど確かに小さな声を零したのはアズールであるはずだが、彼がペンを走らせる音は止まる気配がない。
ファイルを所定の位置に戻して、ジェイドは静かにVIPルームを後にした。

幼い頃は、いつだって空腹を感じていた。特に泣いた後なんかは、ひどくお腹がすいた。
いつものタコ壺の中で、煩わしい涙と自分の吐いた墨で濁る視界の中に、ご馳走の夢を見る。
鯖フィレのパスタ、鯵のクロスティーニ、フォカッチャのサンドイッチ。
味見を理由に厨房でもらっていたお零れたち。小さな皿にコッソリ分けられた僕のご馳走。
頬張って味わって、「美味しいね」と耳打ちすれば、共犯者の料理長が得意げに笑うのだ。
ぐうとお腹が鳴る。
すぐにでも帰って何か食べたい。
でも、こんな顔じゃ帰れない。
目の前でユラユラ揺れる自分の足を口に含む。
海水の味だ。何も美味しくない。
もう、やだ。噛み切ってやろうか。こんな足。
数だけあって、なのにのろまの、役に立たない、ぶくぶく太ったこんな足。
顎に力を入れて、少し噛みちぎる。痛くて涙が出て、結局すぐに吐き出した。
(お腹、すいたな)

ジェイドが閉めたドアの音に反応したかのように、彼の片割れがパチリと目を開けた。何度か瞬きをして、何かを思い出したかのように着ていた寮服のポケットを探り始める。
ふと目当てのものが指先に触れた途端、フロイドはガバリと起き上がった。ともすれば、ホラー映画のゾンビのようにも見える動きであった。あの猫のような生き物が見ればうるさく騒ぎ立てただろう。
ただ、今部屋の中にいるのはそのゾンビのような動きをした男と相変わらずペンを動かし続ける男だけであったので、その場の静寂が悲鳴によって破られることはなかった。
「アズール」
「なんですか」
泳ぐように執務机の向かい側に移動したフロイドが、書類から目を離さないアズールに声をかけた。仕事中に声をかけたところで、アズールがこちらを見ることはない。そんなことは彼もわかっているので、フロイドは気にせず手の中のくしゃくしゃの紙に包まれているモノを1つ摘まんで、つっとアズールの唇に押しつけた。
「んむ」
なんだか分からない錠剤のようなものを口に押しつけられて、流石のアズールも手が止まる。訝し気に見上げれば、いくらか機嫌のよさそうなフロイドと目があった。彼の口が開いて、ニパリと笑みを作る。
「アズール、口あけて」
錠剤のようなものを押し付ける指に力がこもった。アズールは逆らうこともなく口を薄く開けた。どうせ力ではかなわないのだ。
それに、こうやって笑っているフロイドが自分を害することがないことを、彼は知っていた。
唇の上ではさらさらとしているように感じたそれは、口の中に入ってきた途端シュワリと舌の上で溶ける。砂糖だ、と思った。パサパサして甘くて、仄かにすっぱい。
「ど、おいし?」
「ええ。甘いですね。……不思議な食感だ」
キャンディーのように舐めるものなのか、クッキーのように齧るものなのか。
初めて口にしたアズールには分からないので、舌の上でゆっくり溶かしていく。シュワシュワ、舌が少しくすぐったい。
「で、フロイド。これは何なんですか」
もごもごしながら尋ねると、フロイドは手の中のモノを机の上に置いた。丸く小さな白い粒が6粒、くしゃくしゃの紙に包まれている。
「何だっけ。小エビちゃんたちに貰ったんだよね。えーとぉー、らー、らーむー?ライム?レモネード?」
「どっちですか。まあ確かに、ほんのり酸っぱい気もしますけど」
「んー?忘れちゃったぁ」
ライムと言えば柑橘系の果物だし、レモネードは飲み物だ。そして、これはきっとお菓子の部類だろう。いや、同じ名前のモノなのかもしれないけど。ライムやレモンの果汁でも入っているとか?
アズールがあれこれと思考を廻らせ始めたところで、フロイドもそれを1つ摘まんで自分の口の中に放り込んだ。アズールとは違い、すぐに粒をガリガリと噛み砕いていく。
「アズールにも後で食べさせてあげよーと思って、ポケットに入れておいたの忘れてたからさー」
思い出してよかったぁ。と、彼は身体を揺らした。

タコ壺の入り口に手をかけた2匹のウツボが、コチラを覗き込んでいる。
最初はその2対の目が恐怖でしかなかったが、最近はそれにも慣れてきている自分がいた。
「タコちゃん、タコちゃん、出ておいで~」
時々歌われる変な歌も無視できるくらいには慣れた。
図書館で借りた中級の魔導書を9本の手足を使って書き取りながら、使われていない1本の足を口に咥える。
なぜだか分からないが、あの2匹がやってくるととてもお腹がすく。
おかしな思考だ。普通はウツボがタコを食べるのに、タコがウツボを見てお腹がへるだなんて。咥えた足をあまく噛む。噛みちぎらないように、痛くないようにしながら足を噛む癖がついたのはいつからだっただろうか。覚えていない。ただ、こうすると空腹がマシになる気がするんだ。
「あー、タコちゃん、また自分を食べてるー」
「アズール。あんまり噛むと傷がついてしまいますよ」
2本の指に足をつつかれるのがうっとおしくて、近くにある足で振り払う。うわわ、となぜか楽しそうな声がして、2匹の気配がタコ壺から離れる。ああ、もう。
そのままスイと離れていく2匹を横目で確認してため息をついた。
「……ねえ、ジェイド」
「……ええ、フロイド」
やっぱり美味しいのかな?とか、確かにとても美味しそうですけどね。とかいう物騒な声が遠ざかっていく。
やっと帰ってくれるようだ。
それにしても、彼らは一体何がしたいんだろうか。
少し前の契約について、僕がやったことだろうと言い当てられたことがある。興味があるのかと思って「黄金の契約書」の話をしたけど、別に願いを叶えてほしいわけでもないらしい。
それからは気まぐれにやってきて、お喋りしようと言いながら僕の足をつついたり、書き取りをしている魔導書を覗き込んでは何やらはしゃいだりしている。
そうしてしばらく過ごした後は、何故かいつも満足したように「面白い」「興味深い」と言い合いながら帰っていく。訳が分からない。
そういえば初めて僕のところにやってきた時も、2匹で勝手に喋って、魔導書の書き取りした貝殻を見たり数えたりしていた気がする。
かわってる。
速く泳げる鰭もあるし、獲物を噛み砕く強い歯もあるし、見た目だってシュッとしているあいつらが、いったい僕に何を求めているというんだろう。
僕が欲しいもの、持ってるくせに。
(お腹がすいた)
何か。何でもいい。食べたい、食べたい。
足に歯を立てる。痛いのは知っているけど、でも。
(すごく、お腹がすいた)

「タコちゃん、ダメだよ」「アズール、ダメですよ」
突然、僕はタコ壺の外へ強い力で引っ張り出された。激しい水の流れに思わず目を瞑る。持っていたペンは全部離してしまった。ごぶごぶ、くぐもった水音と細かな泡が耳の縁を撫でていく。
何かが僕の足を掴んでいた。怖くて手足をバタつかせる。
「おっと。落ち着いてください、アズール」
聞き覚えのある声の主が掴んでいた足をポンポン撫でて、そっと離した。
おそるおそる目を開けてみる。
浅葱色。金色の片目。ギザギザの歯。
ウツボの片割れが目の前にいた。
「ばあっ!」
「うわあ!」
ギュッと8本の足が縮まる。少し墨を吐いてしまった。
前方ではカラカラと笑う声、後方からは「おやおや」と言う声がする。
「フロイド、そう脅かしては可哀想じゃありませんか」
「アハハッ!タコちゃん、おもしろーい」
ほらほら、怖くないよー。そう言いながら震えた両手をギュッと握られて、顔を覗き込まれる。楽し気に細められた目は、いつもタコ壺を覗いているのと同じだった。警戒を解いたわけじゃないけど、少しだけ肩の力を抜く。
「な、んで。さっき、帰ったんじゃ」
「ええー?ジェイドぉ、オレたちさっきバイバイって言ったっけ?」
「いいえ、フロイド。言った覚えはありませんね」
くすくす笑いながら、もう1匹のウツボが尾びれを揺らして視界に入ってくる。
「僕らはコレを取りに行っていただけです」
その言葉と共に振られた片手には、海藻の袋が握られていた。
「何それ」
「エビとホタテのゼリーです」
「今日のオレたちのおやつ!美味しーんだよぉ」
躊躇うことなく開けられた袋の中には、3つのゼリーが収まっていた。1番通りの角のお店のものだ。新鮮で美味しいと言っているのを聞いたことがある。食べたことはまだないけど、……確かにすごく美味しそうだ。
「タコちゃん、お腹空いてるんでしょ?」
「え?」
「先ほど、声に出していましたよ」
そうだっけ?言っただろうか。お腹は減っていたけど。でも、口に出した覚えがない。
「よっぽどお腹が空いているのか、今にも自分の足を食べてしまいそうでしたものね」
「ね!」
2匹のウツボが顔を合わせて頷いた。自分の足を食べようとしていたのは事実だから、僕は口を噤む。視線を足に向けると、クッキリと歯形がついているものがあった。
「僕たちもこれからおやつを食べようとしていたので、ちょうど良かったです」
そう言った袋を持っていたウツボが、ゼリーを1つ取り出してこちらに差し出す。
「どうぞ?」
それはまるで施しを与えるどこかの聖者のようだった。全くぞっとしない。
そんなことをするようなヤツではないことは、僕だってちゃんと分かっている。
上がった口角で誤魔化した表情の中、笑っていないソイツの目を睨みつけた。
「何が目的なんだ」
「心外ですね。一緒におやつを食べませんかと、誘っているんですよ」
「嘘をつけ。知ってるぞ。お前らはいつも、そうやって相手のことを推し量ってるだろう」
作った笑顔で、優し気に話しかけて。自分たちの世界に必要か否か、利用できるか否か。そんなことをこのウツボたちは、コソコソと楽しんでいるのだ。
バカで幼稚な人魚たちはそうやってコロッと騙されて、こいつらの手のひらの上で踊らされている。
ちょっと見ていれば分かることだ。僕は、アイツらみたいに間抜けじゃない。
「僕をバカにするなよ」
「……なるほど」
「へー。やっぱり面白いね、タコちゃんは」
8本の足を広げて少し距離を取ると、2匹は歯を見せつけるように口を開いた。双方の金色の目が鈍く光ったように見えたのは、気のせいだろうか。
「これは失礼しました、アズール」
ゼリーを持ったまま両手を上にあげて、片方がそう言った。そして、空いた手を胸元へ持っていき、一礼する。スカした奴だ。
「気を害してしまったかもしれませんが、聞いてください。僕たち、キミにすごく興味があるんです」
「それ、いつも言ってるけど。どういうことなんだよ」
面白いとか、興味深いとか。そう付け足すと、彼は「そのままの意味ですけど」と言った。

「そういえば、フロイド。アズールが魔導書を書き取った貝殻の数はどのくらいになりましたか?あなた、数えていたでしょう」
「えー?1000枚超えたあたりから飽きて、数えるのやめた」
「おや、そうなんですか」
「だってタコちゃん、数えてる間もどんどん書くから、どんどん増えるしぃ」
不満を形にした唇が震えて、ブクブクと細かい泡が、上へ上へと昇っていく。勝手に数えて飽きたくせに、なんで僕のせいみたいになってるんだ。
「アレさー、ちっちゃい字とか魔法陣とかがびっしり書いてあったじゃん。内容、全部頭に入ってんの?」
「当たり前だろ。字の練習をしている訳じゃないんだから」
「だよねぇ、知ってる。この前、あの岩を透明にしてたもん」
「ああ。途中ピンクや黄色になって慌てているのが、とても可愛らしかったですね」
「え。み、見てたのか」
「ええ、ちょうどその陰から」
傍の海藻の茂みを指さされて、唖然とした。全然気づかなかった。
「あれは消失の魔法ですか?上級魔法ですよね」
「岩を消したわけじゃなくて見えなくしただけだから、錯覚の応用。中級魔法だよ」
「なるほどぉ?」
片方が首を傾げながら相槌を打つ。コイツ、絶対分かってないだろ。
呪文を理解して、集中してイメージを形にして、習得するまで何回失敗しただろうか。
途中でピンクや黄色になったのを知っているということは、コイツら最初から見ていたのかもしれない。
「あの岩が消えたように見えた時、まるで海の魔女みたいだ、と思いました」
「いいよねー、海の魔女!かっこいい」
「……魔法士なら、誰でもできるような魔法だよ」
「でも、今の僕たちにはできませんでした」
「カクレクマノミみたいな色にはなったけど」
ゼリーを持った方が、ああ、あの時は目がチカチカして困りましたね、と眉尻を下げてみせた。

「それに、タコちゃんは海の魔女みたいに契約書も使えるようになっちゃったみたいだし?」
「黄金の契約書のこと?」
「そうそう、ソレ。元デブ人魚と元ボサボサくせ毛野郎の話したとき、教えてくれたじゃん」
少し驚いた。自分の話でもないのに、よく覚えているものだ。記憶力は悪くないんだな。
「そういえばアズールは、あの後彼らがどうしているか知っていますか?」
そう言われて、黄金の契約書に喜々としてサインをしたヤツらを思い出す。
欲望に目が眩んだ愚かな人魚が、たいして考えもせずにペンを握って、言われた通りに名前を綴る姿。まるで世界の全てが自分のためにまわるのだという顔をして。
「そんなの、僕は興味ない」
「アイツらさー、すげー後悔してたよ?」
僕は綺麗な声で歌えてたんだ、嘘じゃない。このガラガラした声はアイツのせいだ。とか。
尾びれを無くすなんて聞いてない。オレは知らなかった、インチキだ。とか。
「せっかく手に入れたはずの彼女さんに怒鳴り散らしてましたよ」
「サラサラになった金の髪も、グシャグシャに搔き乱しちゃってさぁ」
その様子を思い浮かべて、鼻を鳴らす。
「僕は、きちんと契約の内容通りの願いを叶えてあげたまで」
不正もない。惚れ薬も美髪剤も、僕が何度も調整して望む効果が出るように配合したものだ。アイツらは、取引に満足して帰っていったじゃないか。
「自慢の声も尾びれも対価に差し出すと決めたのはアイツらなのに、言いがかりもいいとこだ」
「そうですね」「だよね」
すぐに返ってきた肯定に面食らう。アイツらを出しにして僕を責めるのかと思っていたのに、彼らはいっそ恍惚の表情を浮かべて僕を見た。
「ちゃーんと願いが叶ったのに、文句ばーっかり」
「実に滑稽でしたよ」
上ずった声が次々と重なって、輪唱になって耳に届く。
「自分は特別だと勘違いした愚か者たちの嘆きは、本当に稚拙で」
「ギュッてしちゃいたいくらいウルサくて」
「気持ちがよいほど不遜で、堪らなく見苦しくて」
「自分だけは大丈夫だって、まるで逃げる気のない稚魚みたい」
「「思い出すだけで、おかしくて」」
「笑いが止まらない」「めちゃくちゃ笑える」
ゲラゲラと下品な笑い声の2重奏が辺りに広がった。捕食者の目が露骨に嗤う。
視界の端の小魚たちが、慌てて海藻の茂みに逃げていくのが見えた。
「タコちゃんはさ、面白い魔法も笑える奴らも独り占めしてて、いいなぁ」
「全くです。是非、僕たちにも分けて欲しいですね」

「僕は遊びでやってるんじゃないんだよ!」
ウツボたちの罵詈雑言に当惑していたはずの思考に、あまりに暢気な言葉が突き刺さってカッとなった。
「お前らみたいに、最初から何でも持ってるようなヤツらに、負けないように、僕はッ」
眠くて仕方のない朝だって、他の人魚たちがおしゃべりしながらランチを取る昼だって、ごっこ遊びやゲームをして遊ぶ放課後だって、晩ご飯の後早々に眠りにつくだろう夜だって。勉強して、勉強して、勉強して。図書館の隅にあった古い魔導書の難解な呪文を理解するために、何度も貸出禁止の古くて重い辞書を引いた。魔法薬作りに失敗したら、ダメだった原因を推測して朝まで作り直しをした。小さい光で文字を追うのは疲れるし、いつの間にかガクンと視力が落ちた。ウルシグサで足がかぶれて、2日ほど腫れがひかなかった。
何でここまでしないと駄目なんだろうって、僕はどうして楽に生きられないんだろうって思いながら。暢気に生産性のない遊びをし続けるヤツらと、何が違うからいけないんだろうって、そう思いながら。ずっとずっと、1匹だけで。いつか絶対、僕を苛めたやつらを見返してやる。後悔させてやる。その執念だけを傍に置いて。
「やっと、やっと黄金の契約書を完成させたんだ。それも僕から取り上げる気か!」
笑いを止めてこちらを見ている2匹の尾を捕まえて、足でギュウと締め上げる。
「ふざけるなよっ」
お前らは1匹じゃないくせに。いつも一緒なくせに。ズルいのはそっちだろう。僕が欲しいもの。僕は。僕は!

ぐぅう~。
突然思い出したかのようにお腹が鳴った。反射的にお腹を押さえる。
「~~っ」
最悪なタイミングだ。今鳴ることはないじゃないか。
赤くなった頬を隠したくて俯く。絶対笑われる。僕のお腹が鳴ると、周りの奴らはいつも体型をバカにして笑うのだ。こいつらも、きっとそうだ。
ジワリと滲み始めた視界に下唇を噛む。
「……もうおやつの時間じゃないですか?おや、ちょうどいいところに、ゼリーがあります」
「オレしってるー。ソレって、美味しい美味しいエビとホタテのゼリーだよ」
「一緒に食べませんか、アズール」「一緒に食べようよ、アズール」
唖然として力が抜けた足から脱出して、彼らが僕の両手を取った。そっとゼリーと残りのゼリーが入った袋を持たされたところで、さっきより大きい音でお腹が鳴った。うう、耳を塞ぎたい。
「……」
「勿論、タダでとは言いません。僕たちもあなたと取引をします」
「そのゼリーは対価ってやつ。対価を払えば、アズールは何でも望みを叶えてくれんだよね?」
確認するように顔を覗き込まれたから、1つ頷きを返す。相手に対価を貰うかわりに、僕が願いを叶える。いつも結んでいる契約だ。
「望みは……そうですねえ。僕たちと名前を呼び合う仲になって、今からゼリーを一緒に食べて、明日は3人でおやつを買いに行く。と言うのはどうでしょう、フロイド」
「いいじゃーん!賛成ー」
2匹のウツボたちは互いの顔を見て、「ね」と示し合わせていたように頷きあう。
名前を呼んで、おやつを買いに行く?なんだそれは。そんなまるで、他の人魚たちがしているみたいな。
「それが願いだって?そんなことが?」
「そう言われても、僕たちの1番の望みなので。3人でおやつを食べるたびに継続していくことが前提ですが、ね」
「そんなん、ずーっとって意味じゃね?」
「ジェイド、怖ぁー!」と声をあげる片割れを気にせずに、彼は話を続ける。
「ああ、契約書は必要ないですよ。僕たちはアイツらみたいに大事なものは差し出せないので」
「嫌だって思ってんならソレ持って帰って、おやつにしたらいいよ」
「もしあなたが望みを叶えてくれるというのなら、あなたの手で僕たちに残りのゼリーを分けてください」
すいと浅葱色をした4本の手が差し出された。1匹はにっこりと、もう1匹はニコニコと楽しそうに笑って、両掌を上に向けて待っている。
(お腹がへった)
僕は、―――。

VIPルームの唯一の入り口である扉の向こうから、ノックをする音がした。強めに素早く3回、手がふさがっている合図だ。
飛ぶように扉に近づいたフロイドがドアノブを引く。扉の向こうにはトレーを持ったジェイドが立っていた。勢いよく開いた扉にさして驚くこともなく、「おや、フロイド。起きていたのですね」と薄く笑って部屋の中へと入ってくる。
「わあ、なにそれ!可愛いじゃん」
「でしょう?アズール、そろそろ休憩にいたしましょう」
休憩と言う言葉と、紅茶の匂い。それからフロイドの手招きに誘われて、アズールは立ち上がりソファーセットへと近づいた。
ローテーブルの上に置かれたトレーには、紅茶ポットと3つのティーカップ。それから3つの小さめの容器。
「ああ、海の中のようですね」
カラフルな小魚を澄んだ青色で閉じ込めたようなゼリーだ。青色はブルーキュラソーだろうか。気泡が入っているから、炭酸飲料を使っているのが見て分かる。
「限定販売のモノだと聞いて味見用に1つ購入しようとしたところ、監督生さんたちに会いまして」
「小エビちゃんたちって暇なの?」
「ラムネの材料がどうとか言っていました」
「あ、それだ!アズール、ラムネだってさ」
「ああさっきの」
「さっき?」
「コレ。あとでジェイドにもあげるね」
ぐしゃぐしゃの紙の包みを見せられたにも関わらず、ジェイドは「ありがとうございます、フロイド」と頷いた。
ラムネの正体は把握済みなのだろう。
「それで?」
「監督生さんの地元では、このくらいの大きさのゼリーやプリンは3つセットで売られていることが多いそうで。それを聞いたサムさんが、3つセットで買えば1つ分の半値を割引にすると」
「なるほど、いい謳い文句です。ジェイドがまんまと買ってしまうんですからね」
「ふふ、お恥ずかしいです」
話をしながらも慣れた手つきでカップに注がれた紅茶から、ふわりと湯気が上がる。海の中で過ごしている間は、熱い飲み物を口に入れて落ち着くようになるとは思わなかった。
「茶請けに合わせてさっぱりしたアイスティーにしようかとも迷いましたが、今夜は冷えるそうなのでホットのルイボスティーを入れました」
「構いませんよ、先週からいっぺんに寒くなりましたから」
「冬の海ほどじゃないけどねぇ」
ジェイドが最後の一滴まで残さず、3人分のティーカップに注ぎ終わるまで、それからソファーに3人揃うまで。お茶にも茶菓子にも手を伸ばさないのは暗黙の了解になってしまった。飽きっぽいフロイドも、3人でのティータイムではそれを破らない。
「では、頂きましょう」
ジェイドが腰を落ち着けたのを確認して、アズールがトレーからゼリーの容器を手に取った。見た目の評価はまずまずなので、はやく味が知りたいと手が急いてしまった気がするが、気のせいということにしておこう。
しかし、いつもなら続いて(たまに彼より先に)茶請けを手にするはずの2人は全く動く素振りを見せない。それどころか、アズールを見て何やらニヤニヤとしている。
「な、何だ、2人して。食べないんですか」
「食べますよ」「食べるよぉ」
2人は互いの顔を見て、「ね」と示し合わせていたように頷きあう。
「じゃあ、さっさと」
「では、アズール。僕たちに分けてくださいな」
「3つセットなら、分けて食べないとだもんねぇ」
すいと薄い橙色をした4本の手が差し出された。1人はにっこりと、もう1人はニコニコと楽しそうに笑って、両掌を上に向けて待っている。
どこかで見たことのある光景だ。陸に上がって、外見は変わってしまったけれど。
2人の表情は、全然変わらない。
僕は自分の分のゼリーを傍に置いて、トレーに残った2つのゼリーに手を伸ばした。

「……はい、ジェイド。はい、フロイド」
「ふふ、取引成立ですね」
「よかったー!俺もお腹空いてきたから、早く食べよー」

「いただきます」と言って、「美味しいね」と言って、「ごちそうさま」と言う。
嫌なことも、悲しいことも、「美味しい」という幸せには叶わない。
……契約書も伴わない遊びのような取引が、こんなに続いてしまうなんてね。
ああ、お腹がすきました。ジェイド、フロイド。
今日も、美味しいものが食べたいです。
また、(ずっと)、3人で。