おおかみさんのいうことにゃ

 

風呂上り、リンパマッサージの前に水を飲もうと足を運んでいたキッチンから、甘やかなラヴソングが聞こえて心臓が止まりそうになった。一昔前に流行った洋楽で、俺も知っている曲だった。この部屋のキッチンで無防備に鼻歌を歌っていられるような奴は限られていて、それが流暢な英語と来れば、思い当たるのは一人しかいない。というか、この低音はどう考えてもソイツなわけだけれども。だけれども、まるで想像がつかなかったのだ。
だから俺は、触れているドアノブを引くこともできずに、ただただその歌に聴き惚れていた。のどが渇いて、それは分かっているのだけれど、動けなくて。
(こんな、せつない声)
その旋律が途切れたのにも気づかず、ぼうっとしていると不意に目の前の扉が開いた。
「うわ!なんだよ。ビビった。いるならいるって言えよ、愛染」
「…うん、いる」
ビクリと体を揺らし驚いてから、牙をむいた剛士が俺の言葉に呆れ顔になる。それから「またなんちゃら水か?厭きねえな」といつものように皮肉を口にして、いつものように言い返さない俺に不思議そうな顔をした。
「どうした、お前。具合わりいの?」
「ねえ、今の、歌」
「歌?ああ」
一昔前に流行ったやつ、知ってるだろ?と知っているのが当然だというように言い放った剛士が、俺の顔を見て眉を寄せた。
「お前、やっぱおかしい。……ちょっと来い」

連れてこられたのは剛士の部屋にあるソファで、座るように促す腕に強引に引っ張られ腰を下ろす。自分もその隣にドカリと腰かけ、その手で俺の額に触れる。熱はねえみたいだけど、と呟いて俺と目線を合わせた。
「どうしたんだよ」
額に触れた手のひらが、ゆるりと動いて頬を包む。幼子に話しかけるような優しい口調に唇を噛んだ。どうしたのか、と言われても困る。驚いたのだ、とバカ正直にそう言えばいいのだろうか。そんなにせつない声が出せることに、それを歌にのせられることに。
彼が、歌にせつなさをのせるということは、つまり、それを聴かせるための相手がいるということになるから。だから、驚いたのだと。
「別に」
「あの歌、嫌いだったか?」
「そうじゃ、ないけど」
愛の歌をあんな風に歌うなんて、剛士も随分大人になったんだね。
いつもの俺なら言えたはずの言葉も喉に引っかかったまま出てこない。何にも気づかないふりをして、あのやわらかいところをくすぐるような声をからかって、それから、どうしたらいいんだっけ。
「今日のレコーディングの後、あいつに言われたんだけど。…なんつーか、歌声が柔らかくなったって」
照れくさそうに目を逸らして剛士が言う。
あいつ、という言葉にギクリとした。それから、なんだそういうことか、と頭の奥で納得する。剛士にも春が来たってことだ。なんだ、よかったよかった。そう言って祝福してあげよう。そう思いながら、口を開く。
「よかったね」
「……不細工な顔してんぞ」
「え」
ふいに真顔で片頬をつねられた。一度逸らされた小さな瞳が、俺を見ている。
どうしよう。
いやいや、どうしようってなんだよ、と思っているうちにもう片方の頬もつねられた。
痛くはない。痛くはないけど、ねえなんで。そう思っているのに、何も言えないまま、何も聞けないままでその目を見つめ返す。
戸惑いを押し隠してしばらく見つめ合っていると、唐突に剛士が噴き出した。
「ブフッ、ふはは。意外と伸びるのな。スゲー、ブス」
「ふぇ、は、はなへ!」
剛士の手から逃げるように頭を振る。俺の頬を捕まえていた指は、思いのほか簡単に外れてしまった。じんわり温い頬がジンとしびれていて、慌てて手の甲で擦った。
さっきから俺もコイツもどこかおかしい。あの歌は、実はラヴソングなんかじゃなくて呪いの歌だったんじゃないかと思うくらいには。早く、早く。いつもの、普段の俺に戻りたい。そうだ、そのためにも早くこの部屋を出ていかなければならない。
「お前のこと考えてたんだ」
のに。
離れていったはずの指が、そろそろと手の甲を這う。体が微かに震えた。優しいはずのそれが、ひどく怖い。直接ナイフを突きつけられているわけでも、罵声を浴びせかけられているわけでもないのに。
「何言って」
「最近はお前のことばっか考えてる。歌ってるときは、特に。なんでだろうな」
なんでだろうなんて、それはコッチの台詞なんだけど。なんでそういうこと言っちゃうの。剛士が得意なツンツン設定はどこへ置いてきちゃったの。
いつの間にか、俺の指の間に割り込んできていた先の硬い剛士の指に戦慄いた。絡めとられたそれを解くために、グッと力を入れて引っ張る。
「あ、はは、なにそれ。口説き文句?まあ剛士なら、歌い終わった後にそんな風に言えば、女の子も嬉しいって言ってくれるかもね」
「……おまえも?」
「俺は、そういうんじゃないだろ」
先ほどとは違い、中々外れない手がじれったい。乱暴に振ってみても剥がれてくれない指を何とか剥がそうと反対側の手へ意識を向けた隙に、スルリと剛士が俺の膝の上に乗っかってきた。その体重で体がソファに沈む。反射的に距離を取ろうと身じろぐと、すぐ後ろに背もたれのやわらかな反発を感じた。
「愛染」
落ちてきた声に顔をあげると、ギラリとした目がより近くで光っていた。
「いつもの余裕面はどうしたんだよ」
愉快そうな声が頭に響く。そのまま、耳元で熱い息を吐いた剛士の鼻先が首筋に押し付けられた。もう、どうしようもない。
「おれ、いま、どんな顔してる?」
絞り出した声が喉を震わせる。その動きをなだめるように、喉ぼとけを舐められた。鼻の奥がつんと痛む。それを嘲笑いながら、剛士の犬歯が頸動脈を狙って立てられる。ビクリと体が揺れた。すると、今度は労わるようにその場所を舐められる。
歯を立てては、舐め、歯を立てては、舐め。その合間に剛士の悩まし気な声がした。
「めちゃくちゃ、美味そうな顔してる」